「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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My fovorite songs (13) 森田童子

 森田童子を一言で評するならば「喪失感を唄う歌手」と言ってよいのだろう。知ったのはごく最近で約半年前。これもYoutube上をフラフラと探索している最中に偶然知った。本当にYoutubeさまさまである。
 経歴を見ると1970年代に活動していたとあるが、テレビなどのメディアに出ることはほとんど無く、東京近辺でのライブが主な活動の場だったらしい。当時は東京周辺にはいたものの、コンサートには無縁だった自分が知らなかったのも当然のことかもしれない。

「たとえば僕が死んだら」 

 彼女(男装しているが女性)の歌詞の特徴は、少ない言葉をもって聞き手の眼前に情景を描きだせる能力だと思う。下に示す三番の歌詞などがその典型例なのだろう。二番の「たとえば眠れぬ夜は 暗い海辺の窓から・・・・」も好きなところだ。

「たとえば雨に打たれて 
 杏の花が散っている
 故郷を捨てた僕が上着
 襟を立てて歩いてる」


「孤立無援の唄」 

この唄の三番の歌詞は以下。

「ネェ何か アルバイトないかなァ
 君はモノクロ テレビのプロレス見てる
 ふたりはいつも 負け役みたい
 でんぐりがえって 地獄がためだネ
 窓ガラス あけると
 無難にやれと 世の中が 顔をしかめてる」

 約50年近くも昔の唄だが、今の日本も当時とあまり変わっていないようである。


「さよなら ぼくのともだち」 

wikipedia「森田童子」によれば、「・・全共闘などの学園闘争が吹き荒れる時代に友人が逮捕されたことをきっかけに、1970年に高校を中退。・・20歳のとき友人の死をきっかけに歌い始めた。」とある。

 上の記事の内容が正しければ、彼女は筆者の一学年上にあたる。筆者は1972年春に大学に入学したが、四月の段階では学内はロックアウト中で入学式は中止、授業が始まったのは五月になってからだった。その後の一、二年間は学内で自死する学生がかなり多かったと記憶している。入学して大学の寮に入ったが、寮内には大学に居続ける目的を失ったように見える上級生がたくさんいた。彼らのうちのかなりの人たちが卒業することなく中退していった。後で人づてに知ったことだったが、中退後に自殺したという他寮の知人もいた。

 当時の学生運動に対する対応については学生個々それぞれであったが、同級生の中で東京出身者の対応はひときわ異なっていたように思う。彼らは、学生運動などは既に経験済というような感じでもはや関心を向けることも無く、ただ個々の興味のみに没頭しようとする傾向があった。

 都内の有名私立高校出身の友人のアパートに行くと、そのころ売り出し中であった小柳ルミ子のレコードを毎回たくさん聞かされて(特に嫌いというわけではなかったが)少々辟易した経験がある。彼に学生運動に対する姿勢について聞くと、もうたくさんだという表情をしながらも、「運動の原点は怒りだよ」と言っていたことを覚えている。都内では既に高校段階でかなりの経験というのか、怒りに始まる紆余曲折があり、最終的な挫折があったようである。

 森田童子の友人(恋人?)が、高校又は大学での闘争の結果としての敗北感の中で、生きる目的を失い自死を選んだことは想像に難くない。この唄が、いや彼女の唄の全てが、その友人の自死をきっかけとして生み出されたものであるのは確かなことだろう。


「ぼくたちの失敗」

「地下のジャズ喫茶
 変われないぼくたちがいた
 悪い夢のように
 時がなぜて行く」

 「そういえば、あの頃はよくジャズ喫茶に行ったな」と思い出しながらこのフレーズを聴いている。わざと照明を落とした暗いジャズ喫茶の中で、コルトレーンマイルス・デイビスを聴きながら、コーヒー一杯で何時間も粘りながら難解な哲学関係の文庫本を読んでいた。読んでいた内容は結局は何も頭に入らなかったが、当時はそういう姿がカッコいいものと思い込んでいたのである。

 この曲は、森田童子本人ではなくて、死んだ友人の視点から唄われているように思う。「だめになったぼくを見て きみもびっくりしただろう」という詞からそう類推するのである。Youtube森田童子の各曲へのリスナーからのコメントを見ると、彼女の唄を聴くことで救われたという内容がかなりある。「だめになったのは自分だけではない」と感じることも時には必要なのだろう。その意味で、彼女は既に亡くなったが、彼女の残した唄が多くの人を今も癒し、救い続けているのだろう。

 今年の春には「生きものがかり」の曲を何曲か紹介した。彼らは常に、未来への希望を明るく力強く唄い続けている。その対極に位置するであろう森田童子は、過去の追憶と後悔?だけをずっと唄い続けて既に死んでしまったのだが、我々には両方の唄が必要なように思うのである。


「男のくせに泣いてくれた」

 今までのネクラな内容の曲紹介とは一転、華やかな美男美女が織りなすテレビドラマ「高校教師」の中で使われた曲である。若いころの真田広之赤井英和、そして桜井幸子が登場しているこのドラマの脚本を書いたのは野島伸司だが、彼は森田童子が既に発表していた唄の内容に合わせてこのドラマのストーリーを描いたのだろう。森田童子がこのドラマの放映に際して新しく曲を作ったことは一切ないのである。それはともかくとして、このドラマのヒットによって、改めて森田童子の曲が脚光を浴びたのは確かなことだ。

 筆者は、昔からテレビはドキュメンタリーとスポーツ番組以外はほとんど見ないので、1993年放映のこのドラマは当然見た記憶もなく、このドラマの存在は森田童子がらみで最近初めて知った。知ってから改めて思うのは「桜井幸子さんはすごい美人」ということ。十年ほど前に芸能界を引退されたのが惜しまれる。若い真田広之さんも実にカッコいい。これら美男美女による話題満載のドラマの全てを通して見たい方には、youtube上にて「高校教師」で検索されることをお勧めしたい。

 あらためて思うのは、1970年代の学生運動の挫折をきっかけとして作られた唄が、その約20年後には、一転して教師と生徒間の恋愛の結果としての喪失感を表現する唄として受容されるようになったということ。愛する対象を失った喪失感を表現する唄は、それが作られたきっかけが何であれ、我々の心は区別することなく受け入れているのだろう。

「ラスト・ワルツ」 

「この暗き部屋の窓から
 街の灯はまばゆく 自由が見える
 すべてが遠きこの時よ
 このまま若い日が終わるのなら
 せめて最後にラスト・ワルツ」

この二番の歌詞を聴いていると、ちょうど香港の若者たちが今置かれている状況を思い浮かべてしまうのである。

 さて、筆者には、気に入った唄を何回か聞いているうちに、ある時点から無意識のうちにその歌が突然脳裏に流れ始めて止まらなくなってしまうという習性がある。この二か月ほどの間、昼間の仕事中にも、森田童子の様々な曲の歌詞が不意に頭の中に流れ始めて止まらなくなってしまうという経験が何回もあった。このような経験を繰り返しているいるうちに思ったことは以下のようなことだ。

森田童子は、既に二年前の2018年4月に亡くなった。しかし、彼女が言いたかったことは、彼女の唄の内容を若干なりとも理解した筆者の脳裏の中に刻みこまれた。その唄を知った時点、今年の早春の時点で、彼女の意識の一部が自分の意識の中に部分的にせよ移植されたような気がする。

・改めて思うのは言葉の持つ強さである。筆者の脳裏に森田童子の歌詞が繰り返し浮かぶのは、彼女の作った歌詞と曲が普遍的な強さと万人に受け入れられる平易さを持っているからだろう。

・唄の持つ力を見くびってはならない。森田童子の唄を聴いたことで自死を思いとどまった人間が実際に何人もいるのである。こんなことは、我々の身の回りとかテレビの中で毎日のように見かける「偉そうにふんぞり返っている人々」には逆立ちしてもできることではない。

・例え、一国の総理大臣であろうと、国を代表する巨大企業のトップであろうと、「自分の言葉を持たない人間は、その地位を失った瞬間に忘れ去られる」。その後は、彼または彼女が死んだ時点で新聞紙上に一片の訃報が流れるだけである。しかし詩人は、その残した詩が理解される限りは忘れられることはない。言い換えれば、「詩人の魂は、その理解者がいる限りは永遠に存続しうる」。

・言葉を後世に残すことで、精神面で現在も生き続けている詩人、作家、哲学者、宗教家等は無数に存在する。日本では、千年以上前で言えば、万葉集大伴家持源氏物語紫式部など。近い例では、宮沢賢治寺山修司阿久悠、等々(筆者の好きな名前だけを挙げた)。外国ではホメロス司馬遷ソクラテス仏陀、キリストなどは、二千年以上前に彼らが抱いた精神が、その理解者が今も存在することで現在も生き続けていると言ってもよいのだろう。

 このように考えているうちに、「人間としての最高の職業は自分の言葉を後世に残せる職業、例えば詩人」との結論に達してしまった。技術者なんぞになるよりも作詞家になればよかった。筆者は作曲方面については全く無能力だが、作詞方面では少しは何とかなったかもしれない。

 しかし、年齢的にはもう遅い。やり直しが効く二十代くらいのうちにこの真理を発見していればよかったのだが・・・、なんとも残念である。今はただ、先人が作った素晴らしい歌詞や曲、文学作品や著作を楽しむことくらいしか自分にはできそうも無い。

/P太拝