「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

当ブログの内容は編集者個人の見解であり、「市民の会」の公式見解ではありません。当ブログへのリンク、記事内容の引用等はご自由に!

My favorite songs (16) 桜田淳子

この五月に沢田研二のスゴさについて書きました。それ以来、1970年代の歌番組、例えば「夜のヒットスタジオ」などを一杯やりながら見るのが筆者のささやかな楽しみのひとつとなりました。
この「夜のヒットスタジオ」の司会の芳村真理さん、頭の回転が速くて司会者としての気配りのバランスも適切。見るたびに素晴らしいと感じます。
Youtubeでこの番組を見ているうちに発見したのが、桜田淳子さん。'70年代以降TVをほとんど見なくなった筆者には「「クック、クック・・」の「私の青い鳥」でデビューした中学生」くらいのイメージしかなかったが、あらためて見ていると彼女の唄う曲がなかなかに良いのです。以下、彼女の曲をいくつか紹介しておきましょう。

「しあわせ芝居」 1978/01/16

この曲を知るまでは、桜田淳子中島みゆき作詞・作曲の歌を歌っていたとは全然知らなかった。中島みゆきが世間に知られるようになったのが'70年代後半。'80年頃には、中島みゆきの歌は、特に若い女性には大変な人気だったようだ。当時、鎌倉市に住んでいた友人のアパートに遊びに行ったら、彼の結婚したばかりの奥さんに一晩じゅう中島みゆきのレコードを聞かされてヘキエキした記憶がある。

それ以前の筆者が学生であった1976年の秋だったか、当時住んでいた下宿近くの食堂に晩飯を食べに行った時、店内に流れて来た研ナオコが歌う「あばよ」を聞いて思わず箸が停まり、自分の意識が歌の中の世界へと引き込まれてしまった。その時の店の中の光景は今でも鮮明に覚えている。こんな内容の歌詞はそれまでには聞いたことがなかったのである。

女性から見た失恋の歌を作らせたら、中島みゆきを超える作詞者は未だに出てきていないのかもしれない。桜田淳子が歌うこの曲も、恋愛のさなかにある女性が感じた不安感をきめ細かに表現しているのだろう。歌に入ってからの彼女の思いつめたような表情はそれまでのアイドル時代には見られなかったものである。

「20才になれば」 1978/09/10

この曲も中島みゆきの作詞・作曲。これもやはり中島ブシ特有の失恋モノである。「はたちになれば・・」と唄うが、正確には、この時点で彼女は既に20才を五か月近く過ぎていた。

「もう一度だけふり向いて 」 1976/12/13
淳子さん18才、高校三年生の時の歌。調べてみたら、中島みゆきの歌を歌うまでは、あの「私の青い鳥」も含めて、なんとデビューしてからの歌の大半が阿久悠作詞だった。'70年代の沢田研二の歌を聞いて「阿久悠は天才だ」と思ったのだが、全くジャンルの異なるアイドルの歌まで引き受けていたとは知らなかった。「間口の広い天才」と改めて呼ばなければならないだろう。
この唄の歌詞に興味をひかれたので改めて以下に示しておこう。これも阿久悠作詞である。

「この私の目に何が見えますか
 ちぎれた心の いたいたしさね
 そう私が今いってほしいのは
 あやまちではない その言葉なの
 あなたは髪を切ってしまい
 違う人のように見えるけど
 さよならだけの季節
 もう一度だけ
 振り向いて もう一度だけ

 この私の手をとってくれますか
 こごえた心をあたためるよう
 学生時代の甘い想い出を
 こわれたおもちゃにさせないように
 あなたが話す明日の夢は
 遠いことのように思うけど
 さよならだけの季節
 もう一度だけ
 ふり向いて もう一度だけ

 こわさずに こわさずに
 せめて せめて せめて
 想い出だけでも こわさないで」

「この私の目」に見えるのは、「髪を切ったあなた」の、あるいはそのあなたを見ている私の「ちぎれた心のいたいたしさ」なのだろう。
'70年代前半の男子学生には、今のロックグループの歌手のような長髪が普通であった。その髪を切って短くするという行為は、同時にそれまでの既成の大人社会に対する反抗・批判・拒絶の姿勢から一転転向しての「既成社会への屈服・同調」を意味する就職活動とイコールであった。「髪を切った」ことは、それまで個々の学生がそれぞれに抱いて来た「明日の夢」をいったんはあきらめることを意味していたのである。

当時の時代変化を敏感に察知し、アイドル歌手の流行歌の歌詞の中にその変化のエッセンスをそれとなく潜り込ませていた阿久悠の感性の鋭さには、改めて感心するしかない。

「もう一度だけふり向いて」 1976/11/20
上と同じ歌なのだが、特に気に入っている動画なのであらためて紹介しておきたい。上の動画よりも三週間ほど前の収録だが受ける印象がまるで違う。哀しい別れの歌なのに、アイドル時代の姿勢のままに元気よく力いっぱい歌っているのである。特に、1:58からの正面を向いて力強く歌っているところが好きだ。
彼女の眼が誰かに似ていると思って見ていたのだが、何回か見ているうちにようやくわかって来た。現在はMLBで大活躍中の大谷選手の眼によく似ているのである。秋田と岩手、隣県同士なのだからDNA的にも共通するところは多いのかもしれない。この二人に共通して感じるのは、共に「真っすぐに前を向いて生きていこう」としている姿勢だ。

ほぼ同時にデビューした「中三トリオ」を個々に一言で言い表すとしたら、山口百恵は「孤独の影を帯びた都会性」、森昌子は「天性の歌のうまさ」だろう。桜田淳子の場合には、彼女の持つ「真っすぐさ、純粋さ」なのではないだろうか。以前から東北人好きの筆者ではあるが、大谷選手と桜田淳子さんを好きになったのも、この二人が持つ「真っすぐさ」からではないかと最近思っている。

以下はアイドルとして全盛期の頃の歌。

「ねえ!気がついてよ」 1976/09/02
眼がキラキラと輝いていて美しい。

「夏にご用心」 1976/06/05
ちょっと(かなり?)太めの淳子ちゃん。

「十七の夏」 1975/6 発売曲
この年には細かったのですね。

「黄色いリボン」 1974/12/31
この年の紅白で初めて中三トリオが勢ぞろい。三人とも可愛いですね。

「はじめての出来事」 1974/12 発売曲
いやー、何とも可愛い! 「こんな娘がいたらいいなー」というよりも、「こんな孫がいたら・・」と言うべき歳にいつのまにか筆者もなってしまいました・・・。同い年くらいの女の子からの声援がすごい。唄がうまくて可愛くて、スタイルも良い彼女。当時の女子中高生の憧れの対象だったことがよくわかる動画。

「わたしの青い鳥」 1973/11/20
中三でデビューした年の三枚目のこの曲が大ヒット、その年の日本レコード大賞新人賞を獲得。まだ幼さがかいま見える。

 

二十歳を過ぎてからはヒット曲もほとんど無くなり、活動の場はもっぱら女優業となっていた彼女。中三トリオでは山口百恵が1980年に21歳で早くも結婚、森昌子も1986年に森進一と結婚して、桜田淳子一人だけが取り残されたような形となった。当時の彼女は自分の立ち位置に悩んでいた時期なのかも知れない。

結局、1992年に34才で結婚した後は芸能界から引退したが、この結婚が世界基督教統一教会合同結婚式であったことから当時は週刊誌の格好の話題となった。

この騒ぎのことは筆者の記憶の中にもあるが、当時は彼女に対する興味は特にはなく、また統一教会の学生向け組織である「原理研究会」にかぶれている若者も多かったため、「またか」と感じただけだった。'70年代以降は各大学に原理研究会があり、繁華街で学生が若者を勧誘している光景をよく見かけたものである。

wikipedia「桜田淳子」を見ても、彼女が「統一教会の広告塔」として積極的に活動したという記載は見られない。

むしろ問題なのは、統一教会の現在の名称である「世界平和統一家庭連合」のwikipedia記事の末尾に見るように、日本の与野党の主要な政治家の多くがこの統一教会の活動に協力したり、統一教会から支援を受けたりしてきたことだろう。その中には総理や大臣の経験者が掃いて捨てるほどいるのである。桜田淳子を批判するならば、まず真っ先に社会的影響力がはるかに大きいこれら政治家連中を批判すべきであろう。

権力を持っている人間に対しては批判を控える一方で、叩きやすい相手にはこれでもかと言うほど叩きのめして悦に入るのが最近の日本人の国民性なのである。安っぽい正義感を振り回しては、自分は正義の味方の一員と自己満足している。日頃の恨みをぶつけられる弱くて反撃できない対象を毎日探し回っているに過ぎないようにも見える。

オウム真理教のような犯罪集団は論外だが、宗教自体についてはある程度許容すべき、というよりも、最近はますますその役割が重要になってきているのではなかろうか。人間関係がますます希薄になり、職場、学校、はては家族の間の結びつきさえも消えつつある今の時代には、「自分が生きていることの意味」を絶えず問い直す必要がある。「穏健な」宗教に触れることは、そのことを考え直すよい機会となるだろう。今の統一教会が、かっての「社会に迷惑をかけたとされる集団」のままなのか、それとも「穏健な宗教団体」に変貌したのかは、情報不足で筆者にはよく判らない。

さて、桜田淳子さんも現在は三児の母として安定した生活をされているようでなによりである。こうして彼女の全盛期の歌を繰り返し楽しめるのもyoutubeのおかげだ。youtubeに代表される動画配信こそが、インターネットが世界にもたらした最大の成果なのかもしれない。

/P太拝