「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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2019年のベトナム(2)

先回に続き、三年半前のベトナムの首都ハノイ旅行記です。

 

ハノイに到着して二日目、月曜日の朝、バイクの爆音で眼が覚めた。窓の外を見るとホテルの前の道路を車とバイクとがゴッチャになって巨大な流れを作っている。昨日の日曜日とは一変、平日の出勤風景が戻って来たらしい。

二月下旬だが、気温は長袖シャツ一枚でちょうどいいくらい。空は曇り空、この時期は大体が曇天とのこと。

ホテルの宿泊料の中には朝食代が含まれているので、アサメシを食べようと一階におりて食堂へ。席はほぼ満席、いろんな顔の人がいっぱい座っている。

インド人らしい南アジア系の御婦人、中東っぽい中年男性、少数だが白人系もいる。東アジア系がかなりの割合を占めているが、顔と服装からは日中韓の区別がつかない。ベトナム人らしい人はほとんどいない。どうやらこのホテルの主要客層は外国人観光客らしい。

よくあるタイプのバイキング形式の朝食で、「和洋中」の食材のなかでは和は無くて当然なのだが、洋と中の食材はたくさんあった。特に美味しいものも不味いものも無かったように記憶している。

とりあえずはハノイ市内の主要な観光スポットを回ってみようということになり、ツアー業者が手配しているという市内巡航マイクロバスの乗り場に向かう。

歩いている途中の路上脇には小さな食堂があちこちにあって、数多くの地元の人たちが歩道にまではみ出して、歩道に置いた小さな椅子に座って朝食のフォーなどをすすっている。こういう風景は、東アジアでは南に向かうほどによく見かけるようになるらしく、タイなどでは一日三食の全てを路上の外食で済ませている人も多いとか。

彼らが座っている高さ十数cm程度の小さな椅子を見ると、以前、開高健「ベトナム戦記」の中で描写していた、ベトナムの庶民が屋台での食事の際に腰掛ける「日本の銭湯でよく見かけるプラスチック製の小さな腰かけ」そのものである。

開高氏が訪れたのは1960年代のサイゴン(今はホーチミン市)であったが、「その国の生活習慣というのは、六十数年も経って旧サイゴンから千km以上も離れた首都においても変わらないものなのだなあ」との感慨を覚えてしまった。

 

しばらく歩いて、マイクロバスの停車場になっているという「ハノイ大教会」に到着。これもフランス植民地時代の遺産で1868年(ちょうど明治元年)に建てられたとのこと。

 

何やら葬式の花輪のようなものが運ばれてきており、これからここでお葬式が始まるみたい。しばらく見ていると、大きな車が到着、そこから棺桶が運びだされた。喪主らしい若者が故人の遺影を持ってその先頭に立っている。この辺は日本と同じだ。

 

迎えるのは海軍のような白い制服に身を包んだ軍楽隊と、それとは対照的な古式ゆかしい青い服に身を包んで燈明台らしき棒を持った三名の僧侶(?)。ここはカソリック教会のはずだが、この三名の服装は昔の中国の官僚の官服のように見える。道教のお坊さんを連想してしまった。

 

結局、海軍にゆかりのある故人の葬儀だったのかもしれない。それともこの軍楽隊は毎回や葬儀のたびにやって来て演奏して報酬をもらっているのだろうか。よくわからない。

遺族らしい人たちは、みなが白い鉢巻をしていたが、これは朝鮮半島では喪服が白色であるのと同様の風習なのだろう。日本では喪服が黒なのとは正反対だ。この辺の食い違いはどこから来たのか、調べてみると結構面白いのかもしれない。

さて、肝心の市内観光のマイクロバスだが、いつまで待っても来ない。ホテルでもらった時刻表によれば、とっくに来ていなければならないのだが。近くを少し探してみると大教会の真ん前から数十m離れた所にその停留所の表示があった。どうやら「大教会前」という記載をそのまま信じて大教会の正面で待っていた我々の勘違いであったようだ。

仕方がないので、目的地の中では必見とされる「ホーチミン廟」に歩いていくことにした。タクシーはたくさん走っていたが、初めての国で言葉も通じないとなると、初めてタクシーに乗るには、安全のためにそれなりの予備知識と準備とが必要だろうと思う。韓国でボッタクリタクシーに乗ってしまった経験がある筆者は、特に強くそう思ってしまうのである。

 

かなり歩いてホーチミン廟に至る途中にある軍事博物館の前までやって来た。ベトナム戦争当時の展示が多いとのことで入ろうとはしたものの、残念ながら本日の月曜日は休館とのこと。

ガッカリして先に行こうとすると、門の付近に立っていた二人の若い女性に呼び止められた。中国語で話しかけて来たので「日本人です」と答えて英語で少し会話。中国政府が激しい弾圧を加えている団体「法輪功」の会員だとのこと。弾圧を逃れてベトナムに逃れてきて、ベトナム人や観光客相手に中国政府の残忍な迫害を訴える活動をしているのだそうだ。

英語と中国語以外に日本語のパンフレットも用意してあって一部をもらった。内容を紹介しておきたいところだが、その中にはあまりにも残虐な写真(スタンガンを当てる等の拷問により、全身傷だらけになって死亡した会員の遺体写真)も載っていたので、この場での紹介は控えたい。

法輪功の内容と歴史、中国政府による弾圧と彼らの活動については、wikipedia「法輪功」の説明を参照されたい。

この説明を読んで思うのは、法輪功とは、元々宗教団体ですらなく、個人を対象とする健康法を広めることを目的とした団体に過ぎなかったということだ。1990年代末には中国共産党の幹部や高学歴のエリート的存在の一般人が数千万人も入会して中国共産党を越えるほどの巨大組織になるに及んで、江沢民が危機を感じたというのがこの一連の残虐な弾圧のそもそもの発端であるようだ。

自分たちの組織に匹敵する組織の存在が出現した場合には、仮にその組織が特に敵対的ではなくても断じて許容しないというのは独裁国家に共通してみられる現象だ。

彼らは、自分たちの脅威になり得る存在に対しては、共存どころか、その内容の如何に関わらずその組織を抹殺するまで弾圧しなければ済まないのである。言い換えれば、自分たちが有している現権力の正当性に対する自信がないから、臆病だから、苛烈な弾圧をするのだとも言えよう。

以前、大阪の中国領事館にビザ申請に行ったときには、領事館の横で法輪功を名乗る人たちがさかんに中国政府を糾弾していた。

現在ではまったく不可能になってしまったが、十数年前に香港一の繁華街である銅螺湾を訪れた時には、「中共撃滅!」(「中共」とは中国共産党の略)の看板を掲げた人たちがマイクを持ってさかんに中国政府を非難していた。当時は「ここまで激しく中国政府を憎むとは、いったいどんな人たちなんだろう」と思ったが、今になって考えてみれば、彼らも中国から香港に逃れた法輪功の人たちだったのかもしれない。

 

なお、日本人もこの法輪功の弾圧被害者とはある面では無縁ではない。おぞましい話だが、中国各地の医療機関では、臓器移植の際には、かって法輪功の会員であり、かつ刑務所に拘束中の人たちの中から優先して臓器を摘出していたそうである。

下に示す記事によれば、現在では、その摘出対象者は中国政府に反抗的な態度を示すことが多い少数民族ウイグル族チベット族、さらには政府非公認のキリスト教会所属の信者にまで拡大しているとのこと。そしてその中国における臓器移植の外国人被移植者の中で一番多いのが日本人であることは、欧米の専門家の一致した見解であるとのこと。

日本にいる私たちは、この事実を強く認識すると共に、日本から中国に臓器を買いに出かける者が誰なのか、誰だったのかををしっかりと把握しなければならない。

彼ら、彼女らは、中国で臓器移植を受けることによって、中国国内の法輪功会員、少数民族、非公認キリスト教徒たちの中の誰かを「間接的に」殺したか、もしくは身体障がい者にしているのである。中国で臓器提供を受けた日本人は、日本の国内刑法上はさておき、倫理面での「犯罪者」であると断言してさしつかえないだろう。

ありふれた電気製品ですら、その全部品の製造履歴の追跡記録が求められるようになった現在、人体への臓器移植に使われる各臓器の由来が隠されたままでよいはずはない。

「中国での臓器移植ツアー売上第1位が日本人であるという事実」

「「なぜ中国人の臓器移植は異常にスムーズなのか」中国で"少数民族への臓器狩り"が噂されるワケ」

「10日間で3度も提供された心臓 名古屋実習生の武漢での移植手術」

この法輪功の件に関しては、もう一点だけ触れておきたい。先回の記事の最後に書いた、訪問第一日に公園で最後に見た「座禅して瞑想している人々」について。

日本に帰ってから法輪功のことを調べていたら、彼らの健康法の手段の一つとして「静功」、日本式に言えば「座禅を組んでの瞑想」があることを知った。前日にあの公園で座禅を組んでいた人たちは、法輪功の健康法の実践をしていた人たちであった可能性は高い。

数年前、1989年6月4日に発生した天安門事件を扱った安田峰俊氏の「八九六四」を読んでいたら、天安門事件に関わった結果、警察に目を付けられてさんざんに迫害され続け、結局は中国から逃げ出してタイに不法滞在している男性を安田氏がタイで取材した話が載っていた。

この男性は北京でのデモに参加していた学生ではなく、天安門事件に刺激を受けて地方都市で同時期に発生したデモに参加したに過ぎない一般労働者だったそうだ。不法滞在のために仕事にも付けず、支援団体の援助を頼りに細々と貧困生活を送っているしかないとのこと。

このように今の中国の体制に不満を持って逃げ出して来た人たちが今の東南アジアには数多くいるのだということを、この日、二人の女性に出会ったことで改めて実感することになった。

さて、さらに歩いてようやくホーチミン廟に到着。下の写真中央の巨大な建物がそれである。

と思ったら、なんと、ここでも「月曜日なので休館」ということだった。まあ社会主義国の元トップの死体を特に見たいとも思わないので、それならそれで仕方がない。ちなみに入館後は写真撮影は一切禁止とのこと。

ここでちょっと寄り道。

旅行当時は何とも思わなかったのだが、いまこの文を書きながら考えてみると、指導者の遺体を防腐処理までして保存し、国民に広く観覧させようとしているのは社会主義国家だけに共通した現象だと思い当たった。

ロシアでは旧ソ連崩壊後もレーニンの遺体は赤の広場レーニン廟に保存され続け、中国では毛沢東の遺体が天安門広場の毛主席記念堂に保存されている(筆者は天安門広場に行ったことがあるが、その時に毛沢東の遺体を見ようという考えは頭の中に全く浮かばなかった)。北朝鮮では金日成とその息子の金正日の遺体が平壌錦繍山太陽宮殿に保存され、ベトナムではホーチミンの遺体がこのハノイの中心地に置いてある。

有名な指導者の中ではキューバフィデル・カストロだけが例外で、死後に火葬され、国葬の後には一般市民と同じ墓地に埋葬されているとのこと。レーニンホーチミンも通常の埋葬を望んで遺言として残したが、周りがそれを許さなかったそうだ。

この社会主義国に共通する「指導者遺体の永久保存熱」とでも呼ぶべき現象はいったん何なのだろうか。それは神の存在を否定したはずの社会主義共産主義国家においても、やはり神格化した存在がなければ国を治めることは不可能だということを指導者層が強く認識していることを示している。

神や皇帝の存在を否定しておきながら、国民統治のためには新たな共通の神、あるいは新たな皇帝の存在が必要なのである。それを実現するための一番簡単な方法こそが革命の創始者の遺体の永久保存と神格化なのだろう。

マルクスエンゲルスは、今頃はあの世からこの現状を眺めては、「人民というのは、我々が思っていたよりもはるかに弱く愚かな存在だったんだ」と失望しているに違いない。

このような国家では一元的な価値観が国民に強制され、多様性は強く否定される。それに不満な国民は国外に出て行くしかない。ロシア、中国、北朝鮮に見る通りだ。ただしベトナムだけはかなり違っていて、名目的には社会主義だが、実態としてはかなり多様性を許容しているようなところがある。この辺のことについてはまた後で書く予定。

 

ホーチミン廟には入れないので、その隣にあるホーチミンが住んでいた家でも見学しようかということになり、さらに歩く。もうこの辺でかなり足が疲れていた。

最初に黄色く塗った豪華な洋風の館が見えて来た。入園時にもらったパンフを見るとフランス植民地時代の仏領インドシナ総督府の館と書いてある。正面階段には外国人を含むスーツ姿の人たちが大勢いる。見学なのか商談なのか。


柵に囲まれており、許可なくしては入れない施設らしいので、我々一般人はそのまま進み、ホーチミンが住み、その中で仕事をしていたという家へ。下がその写真。この日訪れていた観光客は欧米系と中国・韓国系が半々くらいか。

 

平屋建ての小さな家で、内部には入れなかったが、外から中の一部を見ることができる。内部も質素なつくりで、先ほどの総督府の豪華さとは大違いだ。他にも彼が使っていた電話や自動車が展示してあったが、いずれも年代物で骨董品と言ってさしつかえないものばかり。

ホーチミンは1969年に79歳でなくなっているから、それも当然か。アメリカが北爆を行ったのは1965年から1968年、当然、ハノイは爆撃目標の筆頭になっていたはずだから、その間はどこかに避難していたのだろうな。ホーチミン第二次世界大戦当時、日本がベトナムを占領していた頃には中国国境に近い洞窟を根城に抵抗運動をしていたそうだから、元々から質素な生活には慣れていたのだろう。

 

ホーチミンの家を過ぎて広い公園を進むと「一柱寺」の脇に来た。下の写真を撮っただけで通り過ぎたのだが、今回あらためて旅行時に持参したガイドブックを読み直してみると「子宝祈願で有名」なお寺だとのこと。

 

ガイドブックの説明によれば、「11世紀半ば、世継ぎに恵まれていなかった当時の皇帝が、蓮の葉の上に立つ観音菩薩から赤ん坊を手渡される夢を見たところ、皇后が懐妊。そのお礼として蓮の花に見立てたこのお寺を建立した。」とのこと。道理でこの写真をよく見ると、お参りしている人々の大半が女性であることがわかる。

このような「子宝祈願」のお寺や神社は日本でもあちこちにある。宗教には詳しくないが、多分、イスラム教にもキリスト教にも同様の聖地があるのだろう。

このような基本的な人々の願望に応えることこそが、宗教が本来持つべき基本的な価値なのではないだろうか。世界各地で見られるように、宗教各派同士が些細な教義の違いで互いに殺し合いをするようでは、まさに本末転倒というものだろう。

さて、記事の中であれこれと寄り道をしているうちに、二日目の午前中が終わってしまいました。これ以上長くなることは避けたいので、この日の午後のことについては次回に回すことにします。

/P太拝