「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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三代ごとに政府が潰れる国(4)-犯罪の動機-

このシリーズ記事は、元々は昭和戦後~現代と明治~昭和戦前の各分野における共通点を探ろうという視点で始めたものです。

しかし、犯罪について時代を越えた共通点を探ろうとしたところ、戦前の犯罪記録はわずかしか残ってないことが判りました。明治時代には全国紙という存在自体がまだ成立していず、地方紙をいちいち調べなければ各地の状況は把握できないようです。このため、この犯罪面については、明確な記録が残っている戦後以降のみを対象とすることにしました。

先回の記事では、日本だけではなくて世界各国でも犯罪件数は徐々に減少していることを見てきました。しかし、生活実感としては、むしろ日常生活の中で犯罪に出会う機会が増えているように感じます。これには無関係の通行人が被害を受ける、いわゆる「通り魔事件」の近年の激増が影響しているのかも知れません。

今回は犯罪動機の推移とその背景について調べてみることにしました。

 

(1)凶悪犯罪の動機の推移

下の図に昭和期以降の凶悪犯罪における犯行動機の比率の推移を示す。対象とした事件としては、以下のサイトに載っていた事件から二人以上を殺害した事件のみを抽出した。1970年代までのこれらのサイトに載っている事件の大部分が三人以上殺害の事件であった。1980年代以降には二人以上殺害の事件も(その全てではないはずだが)かなり記載されている。

なお、「あさま山荘事件」、「坂本弁護士殺害事件」、「和歌山カレー毒物事件」などの重要と思われる事件がこれらのサイトには載っていなかったので、適宜追加した。

①    大量殺人 - Wikipedia    
②    日本の殺人事件の死者数ランキングTOP50【2023最新版】    
③    図録▽他殺による死亡者数の推移 (sakura.ne.jp)    
④    通り魔 - Wikipedia    
⑤    Category:日本の連続殺人事件 - Wikipedia    
⑥    昭和戦前の大量殺人事件|相馬獄長|note


犯行の動機を以下の八種類に分類した。
    
金銭: 金銭奪取が主目的。

怨恨: 客観的には恨む根拠が希薄な、いわゆる精神障害による怨恨事件も含む。

心中:家族を道連れにした自殺、または家族を殺した結果として自分も自殺。

愉快:リンチ等で人が苦しむのを見て楽しむ。又は、人を支配できる権力を求める。

通り魔: 特に襲う理由が無い無関係の人を襲う。「刑務所に入るため、死刑になるための犯行」のような自殺的犯行も含む。

性欲:自らの性的欲求を満足しようとした結果、殺人に至る。同性・小児を対象とするものも含む。

政治テロ:政治体制の変革が主目的。

不明:動機不明

なお、通り魔事件については、1980年代以前にはほとんど見られず、2000年代以降に激増しているが、事件の性質上、被害者が一人の事例が多い。そのため、その大半がこの図中の分類には含んでいない。

図-1 凶悪事件の犯行動機(以下の図、表はクリックで拡大)

この図を見て判ることは以下。

・金銭目的の犯罪は経済発展と強い相関がある。戦後の高度成長期の1950~70年代とバブル経済全盛の80年代には金銭目的の犯罪が少ない。バブルがはじけた1990年代以降はこの種の犯罪が激増している。特に経済高度成長の最盛期であった1960年代には、凶悪事件の発生件数自体が少ない。

・心中や性欲目的の犯罪は時代を問わず散発的に発生している。

・政治テロとしては、二・二六事件(1936)、あさま山荘事件(1972)、三菱重工爆破(1974)、松本弁護士一家殺害(1989)、松本サリン事件(1994)、地下鉄サリン事件(1995)の五件を取り上げた。

12人を殺害した「連合赤軍リンチ殺人事件」(1971)は、閉そく状況下での仲間内の怨恨が動機であるとした。2000年代以降は政治変革を目的とする大事件は発生していない。昨年七月に発生した「安倍晋三銃撃事件」は被害者が一人であるために元々この図には含めていないが、個人的怨恨が動機とみてよい。

・愉快犯と通り魔犯罪は1980年以降に徐々に増え、近年では激増している。愉快犯の代表例としては「パラコート連続毒殺」(1985)、「北九州監禁殺害」(1996)、「大口病院連続点滴中毒死」(2016)、「相模原障がい者施設」(2016)等が挙げられる。いずれも不特定多数の他者、または自分の支配・監督下にあるか、又はあった人間を苦しめて殺害することを喜びと感じている点が、自殺・自滅傾向を有する通り魔事件とは異なる。

なお、このグラフに示した計128件の事件の中には、鳥取市に関係する以下の二件も含まれている。今回は詳しくは触れないが、別の機会にあらためて取り上げてみたいと思っている。

「スナックママ連続殺人事件」
「鳥取連続不審死事件」


(2)主要事件の犯人の精神的傾向

最近の凶悪事件にはどのような背景があるのだろうか。このような犯罪を減らすためには、私たちはどうすればよいのだろうか。そのような問題意識のもとに、より詳しく個々の事件について調べてみたい。

下の表には過去約20年間における「通り魔的要素」を含む凶悪事件の主要例を挙げた。通り魔的犯罪はその大半が男性によるものだが、女性による犯罪も含めておきたいと思い、当時世間を震撼させた連続詐欺殺害事件三件を追加した。


表-1 最近の凶悪事件の犯人の背景

この表を作る際には各事件に関するwikipediaの記載内容を主とし、他のいくつかのネット上の記事の内容も参考とした。それらの記事を各事件について各一点だけを以下にあげておこう。

①    池田小、秋葉原…大量殺害を起こした「犯人たちの戦慄肉声」 | FRIDAYデジタル (kodansha.co.jp)
②    鳥取6人不審死事件 35歳ホステスが男性を次々篭絡した妖艶手口 | FRIDAYデジタル (kodansha.co.jp)
③    関西青酸連続殺人事件|結婚したら殺される!恐ろしい後妻業の女 (guardians7.com) 
④    木嶋佳苗の現在!生い立ち・獄中結婚した夫3人・テクニックも総まとめ【首都圏連続不審死事件の犯人】 (newsee-media.com)
⑤    【土浦連続殺傷事件】金川真大の生い立ちから死刑まで!家族は? | 女性が映えるエンタメ・ライフマガジン (windy-windy.net)
⑥    「食べるのが遅いと新聞のチラシにぶちまけて…」秋葉原無差別殺傷事件・加藤智大が語っていた“歪んだ親子関係” |  文春オンライン (bunshun.jp)
⑦    大阪個室ビデオ放火事件|中途半端な自殺願望で16人が犠牲に (guardians7.com)
⑧    《相模原45人殺傷事件》「こいつしゃべれないじゃん」と入所者に刃物を 植松聖死刑囚の‟リア充”だった学生時代 | 文春オンライン (bunshun.jp)
⑨    マスコミが絶対に報じない、猟奇的な「座間事件」が起きた本当の理由(阿部 憲仁) | 現代ビジネス | 講談社(1/7) (gendai.media)
⑩  「京アニ事件」から2年 青葉真司の「呪われた」家系図 祖父、父、妹が揃って自殺

⑪    生活保護があっても、北新地ビル放火殺人事件を止められなかった理由 | | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)


まず、上記表中の②~④、三件の女性による詐欺殺害事件について見ていきたい。表に記載した殺害人数以外にも、これらの犯人の周囲では男性の不審死が数多く発生しており、実質的な被害者はこの数倍になるのではないかと推測されている。

奇妙にも、この三件は時を同じくして共に2000年代の後半になって明らかになっているが、これは偶然ではないのかもしれない。1990年頃に始まったいわゆる「経済停滞の失われた20年」の後半期に相当している。バブル期の狂乱経済に憧れたりその記憶が消えない世代にとっては、自分の中に育てて来た理想の自分と現実とのギャップに悩んでいた時期なのではなかろうか。

体力が男性よりも劣る女性には暴力事件よりも詐欺事件の方が手を出しやすいのだろう。最近では、青酸、睡眠薬練炭による一酸化炭素の併用などによって、非力な女性であっても身の回りの男を次々に殺害してカネを奪うことが可能になった。

一般的に言って、科学技術が発達した結果として自分が直接に暴力を振るわなくても殺害可能となったことで、以前よりも殺人に対する心理的障害が相当程度低くなってきたように思われる。殺害相手に対して毒物をもる行為は、爆撃機の操縦士が敵国の市街地に向かって焼夷弾原子爆弾を落とすためのボタンを押す行為と心理的には似たようなものなのかもしれない。相手が苦しむ様子を直接見たくなければ見なくてもすむのである。

「・・・過去においては、誰かが人を殺した場合には、その人のなかに自分の行動についての十分な人格的な実感が生じたものである。しかし、殺人が飛行機上の遠く隔たった高所から「科学的」に行われる場合には、情況がまったくちがってくる。ボタンを押せば、十万人もの人間が絶滅されるのだからである。・・」 (「近代人の疎外」 P42  パッペンハイム 岩波新書 1960)

もう一つ言えることは、相手を自分に引き付けるためにも魅力を振りまいて十分にサービスし愛想よくしておきながら、その一方では、計画通りに相手を殺害するために冷徹かつ着実に殺害を準備できているのが不思議に感じる。相手に対する憎悪や憎しみの感情が少しでもあったならば、こううまくはいくまい。

これから言えることは、これらの事件の犯人にとっては、殺害対象の男は特に好悪の感情の対象となる存在ではなくて、むしろ銀行のATMのようにありがたく生命を持たない物質的存在なのではなかろうか。あるいは自分の仕掛けた罠にかかった獲物、後で解体して食べる肥った獲物ほど可愛くみえるということなのかもしれない。

さらに不思議なのは、特に容姿が優れているとも言えないこの三名の女性に、まるでミツバチと花との関係のように男たちが次々に引き寄せられていったことである。これは彼女たちが、ユングが唱えた元型(アーキタイプ)の中のグレードマザー(太母、地母)の役割を無意識のうちに演じていたことであろうことを示している。


次に男性による大量殺人事件について見てみよう。⑤の事件は殺害人数が二人と少ないが、⑥の秋葉原事件では犯人自らこの土浦事件の模倣であったと述べており、家庭背景もかなり特異と思われるので載せることにした。

以下、各事件に共通する注目点を挙げてみたい。

(a)母性的存在の不在

上の表で男性が犯人の場合には、⑤と⑧以外の犯人には、いずれも母親かそれに代わる存在が希薄である。母性的存在とは、基本的には子の存在を全て肯定し、子を受け止めて保護する存在なのだろう。「安心して甘えることができる相手」と言い換えてもよい。その意味では女性に限られるわけではなく、男性でもこのような役割を果たすことも可能だろう。

①のケースでは、犯人Tは幼少時から母親に嫌悪され蔑視されながら育ってきたようだ。一方で父親は極めて厳格な性格だったとのことで、家庭内には彼が癒され安心できる居場所が最初から無かったように見える。

数年前、何気なくラジオを聞いていたら、寮美千子さんという方が奈良少年刑務所を取材した時の話をしていて、それを聞いて衝撃を受けたことがある。

彼女の話によると、入所者の少年の中のかなりの割合が、実の母親から「お前なんか産まなければよかった」というたぐいの暴言を言われながら育ってきたそうである。「自分もそのような言葉を浴びながら育っていたら、今頃はどうなっていただろうか・・」と恐ろしく思いながら聞いたものである。

⑥の秋葉原事件の犯人Kが、この「母性不在」の環境の中で育った典型例のように思われる。彼の母親は息子を進学校に入れたいがために、彼の行動を完全に支配し彼の自発性を奪った。家庭の中に父親が二人いるようなものであったらしい。その反動と復讐とが、のちに名門高校卒業後の大学進学放棄として形をとって現れることになる。

⑦と⑪でも、犯人はいったんは結婚して平穏な家庭を築いたものの、離婚後には社会から孤立し経済的にも困窮して自殺願望をつのらせている。

座間の事件⑨でも、犯人Sは犯行後も自分の母親だけには会いたがっているらしいが、母親は面会拒否を続けているそうだ。

京都アニメーションの事件⑩でも、犯人Aを擁護する訳ではないが、彼が幼い頃からずいぶんと悲惨、かつ周囲からの愛情に乏しい環境で育って来たことは確かだろう。

 

なお、一般的には母と娘の結びつきは母と息子との関係よりもはるかに強固だが、それが強すぎると逆に娘の人生を束縛することになる。母性が巨大化して疑似的な父性に変化し、娘の行動を極端に束縛した結果、凄惨な悲劇となった例としては2018年に滋賀県守山市で起こった事件が挙げられる。

「医学部受験で9年浪人 〝教育虐待〟の果てに… 母殺害の裁判で浮かび上がった親子の実態」

上の表には載せていないが、1988年に関東一円を震撼させた「東京埼玉連続幼女誘拐事件」の犯人Mも母親からの愛情が希薄な中で育っている。

このように見ていくと、女性に比べて男とは、なんと精神的に弱くてもろい存在なのかと思う。我々は仮に苦境に陥った場合にも、自分をかって愛し受け止めてくれた母のような存在を思い起こすことで、犯罪を犯すことからかろうじてまぬがれているのかもしれない。

 

(b)経済的困窮と非正規職

上に挙げた事件の多くでは、経済的に困窮したことをきっかけとして犯行が実行に移されたと言ってもよいだろう。また、ほとんどのケースで、犯人は安定した仕事につけないままに非正規職を転々としている。

非正規職と正規職の違いについては、一般に前者の年収が後者のそれの半分程度でしかないことはよく知られているが、その他にも、仕事における決定権の差が大きいことが挙げられる。

非正規職では、あらかじめ正規職の誰かが作っておいたマニュアルに忠実に自分の手足を動かすことが求められる。自分が工夫したやり方で勝手に作業を進めると逆に叱られることも多いだろう。日本人の働き方は「職人的」と評されることが多いが、現代の非正規職に留まっている限りは職人にすらなれないのではないだろうか。

最近では非正規から正規への転換を積極的に進めている企業も出て来ているようだが、非正規には能力が身につかない単純作業のみを割り当てている企業がまだ大半だろう。非正規職として職場を転々としているうちに、彼らの心の中には鬱積したものがどんどんと溜まっていくのではなかろうか。

製造業への人材派遣が解禁されたのは小泉内閣時代の2004年3月であった。下に日本の正規職と非正規職の割合の推移を示しておこう。

図-2 

小泉内閣の期間は2001年4月~2006年9月であったが、この間、全労働者における非正規の比率は一貫して上昇を続けている。

日本の支配層は、戦前は武力を背景に他国の土地を奪って植民地化することで自身の利益を確保したが、戦後約五十年が過ぎると、自国の内部に政策的に格差を作り出すことにその収益の源泉を求めるようになったのである。

製造業への派遣が解禁された当時、筆者が勤務していた会社では、ちょうど特定の部署で受注が増えたために、その製品の製造ラインを三交代で動かす必要が生じていた。そこで、総務部がさっそく派遣会社と交渉して十人程度の派遣労働者を導入することになった。この製造業への派遣解禁の直後から、鳥取市内にも製造業向け人材派遣会社がいくつか誕生していたのである。

自分にも関係がある部門だったので、時々、現場に様子を見に行った。それまでこのラインで働いていた正社員に対しては、個人ごとにその勤務態度と成果とが定期的に評価されていた。しかし、派遣会社から来た人たちに対しては、そのグループ全体としての評価だけであり、こちらからは個別の評価はできない。また、彼らがいくら頑張って働いても将来の昇給は約束されない。

「こんな働き方で、はたして彼らは仕事に対するモチベーションを維持できるのか? 現在の製品の品質が維持できるのか?」と大いに疑問に思ったものである。

その後、会社を退職してからは、筆者自身、当座の収入を得るために短期間の派遣社員として製造ラインで働くことを経験した。

雇われた側である自分から見れば、「ただ言われた通りのやり方で、契約した時間だけ作業をするだけ」のことであり、仕事のモチベーションも何も、このポジションに居ては持ちようがないと実感した。「早く終わりの時刻にならないかな」と壁の時計を時々見上げながら単純作業をするだけの日々であった。個人的にいくら頑張ってみても時給は変わらないのである。

そもそも、会社の経理上は、派遣社員に関する発生費用は「人件費」ではなくて「物品購入費」として処理される。要するに、今の日本では。派遣社員はヒトではなくてモノ扱いされているのである。これが最近の日本の製造業の品質低下の一因となっているのかもしれない。もちろん、自分の将来に希望が持てない職場に長くいればいるほど、心の中に周囲や社会全体への恨みがたまっていくことも想像に難くはない。

 

(c)なぜ自殺願望が生じるのか

男性による事件の大半では犯人は犯行以前から自分の自殺願望を周囲に漏らしていたようだ。例外は相模原の⑧であり、座間の⑨については自殺願望があったかどうかは不明だ。
心理療法家の故河合隼雄氏によれば、青少年が万引き、ケンカ、不純異性交遊などの犯罪・非行や、リストカットなどの自殺未遂を繰り返し起こすのは、「自分が、この先、どうやって生きてよいのか判らない」ことを無意識のうちに表現しようとしているためだとのこと。

これらの行為は「自分はこれからどう生きたらよいのか? 誰でもいいから教えてくれ!」という彼らの心からの痛切な叫びに他ならないのである。

この観点から見れば、特に生活に困窮しているとも思えない⑤や⑥が、なぜ自殺願望を繰り返し表明していたのかということへの理解も可能だろう。

この叫びに対して、「世間の人のように普通に生きろ」と一般論を言うだけでは、なんの解決にもならない。彼らは、そんな話は、既に学校で毎日のように聞き飽きていたのである。問題は、彼らの個別の叫びを真摯に受け止めて、自分の言葉を使って正面から向き合おうとする大人の不在にあるのだろう。

河合氏は次のようにも書いている。

「ある個体が個体として成長するためには、常に適切なインヒビター(抑制者)が必要なのである。・・・青少年に対して、親や教師が不退転の壁として存在するとき、彼らの巨大なエネルギーがそれにぶつかり、分化し統合されて、青少年の成長が生じるのである。この抑制者を失うとき、エネルギーは単に暴発するだけで、自分のものとはならない。・・・・子どもを理解するとか、自由を尊重するという美名のもとに隠れ、その本質を理解することなく、自ら抑制者として子どもの前に立ちはだかる義務を放棄してきた大人が、ずいぶんと多かったのではなかろうか。」

(「日本人とアイデンティティ」p187-188 河合隼雄 講談社α文庫 1995年)

この文章は、元々は校内暴力がピークを迎えた1980年代に書かれたもののようだが、現代ではさらに状況がエスカレートして、青少年が暴力を振るう場所と相手は、校内の教師から路上の無関係な通行人へと移っている。

河合氏によれば「日本は典型的な母性的社会」とのことである。キリスト教イスラム教のような根本的原理がある「父性的社会」では善と悪の区別は明確だが、日本にはそのような根本的原理は存在しない。しいてあげるとすれば、「世間さま」か「その場の空気」、またはその時々で変わる「マスコミの主流論調」くらいしかないのである。

欧米やイスラム圏では、若者はキリスト教イスラム教の従来の教えと格闘しながら自己の価値観を確立して生まれた家を出て自立していくが、日本社会にはそもそも格闘する相手となる父性的原理が存在しないため、若者はいつまでも自己の価値観を確立し自立することができない。条件が許す限りは、母性的な親の元でいつまでも甘えていられることになる。これが日本社会に特有の「引きこもり」現象の原因だろう。

日本の父親には、たとえ一時的にはサンドバック状態になろうとも、思春期のわが子に対しては、どこかからの借り物ではない自分なりの言葉と価値観とを持って向き合うことが求められていると思う。

 

(d)コミュニケーション力の不足、実世界からの遊離

秋葉原事件の⑥では、犯人Kは職場に対する不満が募るたびに「抗議の意味」で無断欠勤を続け退職することを繰り返している。実に「幼児的な」行動というほかはない。

我々の世代であれば、職場に不満があれば、仲間を集めて労働組合を作って経営側と交渉しようという発想になるのだが、孤立化が進んだ今の職場では何事も個人で解決するしかないという発想になってしまうのだろうか。

自分の中に不満がたまってもそれを外部に表明する手段を知らない場合、積もり積もった不満がある日突然爆発して、周囲も当人自身も不幸な結果を招くことになりかねない。

心配なのは、この犯人Kの行動と共通する現象が今の日本のあちこちで見られることだ。数年前だったか、会社に退職希望を言い出せない人に代わって退職を申し出る「退職代行業」が誕生という報道に接して、本当にビックリした。それ以外にも、新入社員が会社にかかって来る電話に出たがらないという話は多い。電話での受け答えができないとか、相手の口調の変化でその感情の変化を読み取る能力が身についていないことがその理由らしい。

テレビニュースを見ていると街頭インタビューに答える若者の言葉がやたらと丁寧で、まるでビジネスの現場でのあいさつのようにさえ感じる。最近の若い世代は、仲間内でのくだけた話し言葉か、木で鼻をくくったようなビジネス上のきまり文句しか使えず、その中間の言い方を知らないのではないか。自分の考えを誰に対しても率直に表明できるコミュニケーション力が欠けているように思う。

筆者の記憶では、1990年代になると職場ではメールが急速に普及、2000年代に入ると、同じ室内に座っている者同士でもメールで情報をやり取りする例が増えて来た。「なんで数歩歩いて行って、じかに相手の顔を見て話そうとしないのか」と旧世代的にはイライラしたものである。

これからはメタバースが普及するそうだが、ネット経由でしか人とつながれない人、ネット上の世界にはまり込んで出て来られなくなった人がますます増えるのではないかと心配だ。

実際、土浦の事件⑤の犯人は、その犯行の動機として「ゲームの世界と比べて、現実世界のつまらなさに耐えられなくなったため」と裁判の中で述べている。

薬物中毒による妄想世界や、ネットが提供する仮想空間の中にしか喜びと自己肯定感を見いだせなくなった人物が、実世界における自分の姿に大きく幻滅した時には、この事件と同様に無関係の人を巻き込んでの拡大自殺を起こす確率は高いだろう。対策としては、実世界での自己肯定感を確立すること、日常の生活の中での自分への自信を取り戻すことにしかないのである。

(e)大麻の影響

⑧の相模原の事件については、大麻吸引の影響がかなり大きいのではないだろうか。犯人Uが大学入学後に大麻を吸い始めてからは急に人格が変わったという証言がある。

大麻の健康への影響はアルコールよりも低いとされる報告もあり、欧米では大麻を解禁する国や州もいくつか出てきている。しかし、人によっては、この事件のように大麻吸引をきっかけとして元から持っていた妄想が肥大化する傾向もあるのだろう。

現在、米国では麻薬の代用品としての鎮痛剤のオビオイド等の過剰摂取による死亡者が年間十万人を超えるようになった。米国の年間の自殺者数は約五万人なので、苦しい現実から逃れるための薬物の過剰摂取も自殺のうちに含めれば、その合計は約十五万人となり、日本の自殺者数の二万一千人(2021年)の約七倍に相当する。

日本では薬物過剰摂取による死者はまだ少数にとどまっているようだ。人口十万人当たりで比較すると、過剰薬物死も含めた場合の米国の自殺率は日本のそれの2.7倍に達する。
「米国でオピオイド中毒死者数が急増 コロナ禍でオピオイド危機が再燃」

昔から「日本の将来を予想するには現在のアメリカを見ればよい」と言われている。一部の芸能人が大麻解禁を唱えているようだが、大麻覚醒剤等のより深刻な薬物中毒への入り口とも言われており、国民の健康のためにも、犯罪増加を抑制するためにも、日本での今後の解禁を許すべきではないと思う。


(3) 凶悪犯罪の防止のために我々には何ができるのか

以上で見て来たことをまとめれば、凶悪事件発生の背景には「貧困」と「自己肯定感の欠落」という二つの要素があることは明らかだろう。後者はさらに「母性的存在の不在」と「自分が生きる意味を見いだせないこと」に分けることができるだろう。

凶悪事件が起きるたびに、ネット上には「早く死刑にしろ」とか「自己責任」という言葉があふれるのだが、おそらくこれは凶悪事件の発生防止の観点から見れば逆効果だろう。

まず、「死刑存続・対象拡大論」だが、自殺の近道としての死刑になりたくて無関係の人びとを殺戮する通り魔事件が急増している現状を見れば、死刑制度を今後も存続させれば、自殺予備軍の中からさらに多くの死刑希望者、通り魔事件の加害者を呼び寄せてしまうことになるだろう。

犯人に対する遺族の復讐感情はもっともなことであり、筆者自身もその立場になれば同様に感じるのだろうが、ここでは一歩引いて、社会全体としての被害を減らすための客観的な対策を考えるべきである。根本対策は自殺予備軍の絶対数を減らすことにある。

「自己責任論」については、上で見たように、凶悪事件の犯人がこのような行動をとるに至ったのは周囲の環境による要因もかなり大きい。そのような環境をつくってしまった我々自身の日常生活と国・自治体の行政内容にも責任がある。

単に犯人の自己責任で片づけてしまうだけでは、今後も似たような事件がさらに増えることになる。「自己責任論」の蔓延は、自殺予備軍をさらに精神的・社会的に追い詰める結果しかもたらさないだろう。

「貧困」対策については、まずは現在の日本に暗黙裡に存在する「正規・非正規カースト制度」を撤廃する必要がある。

新規卒業者のみを正社員として優遇するようでは、格差是正も、産業間の労働力の移動による国全体の競争力強化も進まない。安倍政権がかって唱えた「同一労働・同一賃金」は、現在どの程度まで進んでいるのだろうか。

「自己肯定感の欠落」対策については、労働現場では、非正規職にもその習熟度に応じた責任を分担してもらうようにする必要がある。与えられた責任を果たせばそれに応じて報酬も引き上げることで良い循環が生まれる。職場で疎外感を感じることも減るだろう。

しかし、自己肯定感を育てるためにとりわけ重要なのが、小中高を通じての教育現場と家庭の在り方だろう。ここまでは犯人がどのようにして犯罪を犯すに至ったかを見て来たが、以降は視点を百八十度変えて、成功者と言われる人たちがどのようにして育ったかを見てみよう。

次の記事はごく最近のものだが、教えられる点が多く含まれている。この記事は前編だが、これに続く後編もぜひ読んでいただきたい。

「大谷翔平の両親が、我が子の前で「絶対にやらなかった」意外なこと」


次の点が大事であることが判る。

・子どもには、なるべく色々な体験をさせること。途中でやめても叱らないこと。
・見守りはするが、口は出さないこと。
・子どもに対して過度な期待はしないこと。
・家庭内の雰囲気を明るく、なんでも言えるオープンな場に保つこと。

要約すれば、子どもの心の中からの自発性を育てることを最優先し、決して子供を自分の身代わりにして成功させようなどとは考えない。順調に成長して大人になってくれればそれで十分と思うことだろう。

親が実際にそのようにするのは、相当なエネルギーを使うことになり、かなり大変だろう。我々は、つい、「それじゃダメでしょ、こうしなさい」などと子どもがやっていることの先回りをしてしまうのだが、それでは子どもの自発性も課題解決能力も育たない。親みずから子どもの成長機会を奪っているのである。同様なことは小中高の学校内でも日常的に起こっているらしい。

上の記事を読んでいるうちに、これらの成功者を生み出した家庭の育て方が「モンテッソーリ教育」とそっくり同じであることに気がついた。六才までの幼児を主対象とするこの教育方法では、教える側はもっぱら子どもの行動を観察する側に回り、子供に指導や強制をすることを極力控えるのである。

筆者の知人に保育園を経営している人がいるが、彼は教育関係の大学の卒業後にこの教育法を実践している保育園で数年間修業したそうである。また、この教育法は、近年、鳥取県東部各地で増えている「もりのようちえん」の教育法ともそっくりである。

残念なのは、これらの幼児教育によって自発性が育ったであろう子どもたちも、小学校入学後には集団への同調を強いられる現在の学校教育の中に組み込まれてしまうことだ。

最近では、自分の子供には日本の学校教育を受けさせたくなくて外国に移住する親も増えているらしい。子どもの自己肯定感を削り取ってしまいかねない、現在の日本の学校教育の内容は大きく見直す必要があるだろう。

「家族でオランダへ教育移住。日本の教育と比較して気づいた違い」
「「日本で子育てしたくない」日本から海外移住が過去最多「頭脳流出」の原因は」
「「日本にだけは住みたくない」“海外育ちの子”が感じる生きづらさ」

 

さて、ここで述べた子どもの自発性を尊重することの重要性と、上の(2)の(c)「なぜ自殺願望が生じるのか」で述べた「青少年に対して、親や教師が不退転の壁として存在」すべきと述べたこととの関係について説明しておこう。

この二種類の方針は、一見、矛盾しているように見える。しかし、自発性を十分に発揮できた結果として自分で工夫するすべを学び、既に何らかの分野で自分に自信がついた子どもは、思春期を迎えて色々な障害に出会っても、努力してその壁を自力で乗り越えていく力が既に十分についているのだろう。

ただし、このような力をすでに蓄えている子どもはごく一部に留まる。思春期を迎えた子どもたちの大半は、偏差値に代表されるような一元的な価値観の下で自信を失ない、何らかのコンプレックスを抱えこんで悩んでいるはずだ。

筆者自身の経験では、中三の秋になると生徒それぞれの進路がほぼ決まるのだが、進学校に進めずに実業系の高校に行くことが決まった男子同級生の中では、何人かの行動が卒業の時期までかなり荒れていたことを思い出す。

こういう時にこそ親や教師の出番であり、偏差値だけで人生が決まる訳ではないことを、長い人生の中では後でいくらでも挽回が効くことを信念を持って示さなければならないのだが、実際には、むしろ彼らを避けて遠ざかろうとする大人が大半であったようだ。

子どもに対する親の対応が適切であったであろう例を、もうひとつ紹介しておこう。

ちょうど今、WBCの開催中で日系アメリカ人のヌートバー選手が大活躍して人気者になっているが、彼の育った家庭の雰囲気が伝わって来る記事だ。

「日系人初のWBC参戦のヌートバー、野球を奪われた2020年に母に勧められバイトも経験し人間的に成長」
二十歳を過ぎていても、彼は親の勧めに素直に従って厳しい肉体労働を体験している。子どもの頃から互いに培ってきた親との信頼関係があってのことだろうし、親の価値観も垣間見える。

さて、今回教育の問題を調べていて、望ましい子育てのやり方とは、会社での仕事の進め方によく似ていると感じた。

筆者の体験から言えば、製品を開発する技術者にしても、それを売る営業担当者にしても、最初の一発でいきなり大きな成果が上がるなどということは、ほぼあり得ない。

様々な顧客を訪れては話を聞き、試しに試作品を作ってみては反応を調べ、とにかく小さな失敗と小さな成功とを数多く経験することで、やっとどんな製品を開発すればよいのか、どのような顧客がそれを欲しがっているのかが見えて来る。ただ椅子の上に座って製品の構想を考えているだけでは何ひとつ生まれない。

眼の見えない人でも、手を前に出してあちこち触りながら歩いているうちに、自分の前にいるのが牛なのか、馬なのか、象なのかが判るようになるものなのである。

子どもにも、好きな分野を好きなようにやらせて、小さな失敗と小さな成功を数多く経験させるべきだろう。そのうちに彼の中に自発性と工夫する力とが自然と芽生えて来る。親や教師は子どもが危険な領域に近づいた時には手を出すが、それ以外では見守っているだけの方が良いだろう。

子ども自身が行きたかった分野には結局は進めないのかも知れないが、自分であれこれと試した結果であればあきらめもつく。いろいろとやっているうちに自分の得意な分野も見つかることだろう。

自分のやりたいこともやれずに苦手な勉強やスポーツを強制された場合、あとで結局失敗してしまった時には、親や教師のせいで自分のやりたいことが出来なかったという恨みだけが残る。

その失敗が大きなものであった場合には、その後は失敗を恐れて委縮し、自発性を自ら封印して与えられた仕事をこなすだけの無感動な生活を送り続けることになるか、極端な場合には、自信を失い世間の眼を恐れて引きこもり生活に入ってしまうケースもあるのだろう。

我々は、凶悪事件の犯人は自分たちとは全く異なる別世界から来たような存在と捉えがちだが、その背景を調べてみれば、彼らも元々は我々や隣人や同級生とほとんど変わらない普通の人間なのである。

ただ、家庭環境や学校、職場などの日常生活の中で、彼らの心の中の歯車がいったん狂ってしまうような錯誤が連鎖すれば、結果的には、彼らは想像もできないほどの凶悪な犯罪者に変貌してしまうのである。その日常生活の中に潜んでいるかすかな錯誤にいち早く気づくことこそが、いま最優先で求められていると思う。

/P太拝