先日、ひょんなことで、友人・知人と気高町の日光池に行きました。ご存知のように、この池は戦国末期の武将、亀井茲矩が鹿野城主であった時代に潟湖を干拓して水田にしたものです。夏の間は水田ですが、冬季は一面の湖水に変わります。
稲刈りが終わって湖水になりつつある日光池を見ながら、鹿野在住の知人、Sさんとの会話。
筆者「干拓でこんなに広い水田を作るとは、亀井の殿様は大変な仕事をしたものですね。四百年たっても、当時のまま利用されているのだからすごい!」
S氏「亀井の殿様は気高郡のあちこちで、今に残る立派な仕事をされていますよ。」
S氏「鹿野では今でも「亀井さん」と敬称付けで亀井の殿様のことを呼んでいます。」
筆者「そういえば、鹿野の城跡には森鴎外の子孫の句碑(?)も建っていますね。」
S氏「森鴎外の先祖も亀井家と一緒に、鹿野から津和野へ引っ越していったとも言われているが、真偽のほどは・・?。ともあれ、亀井さんはたいした働きをされた殿様だったので、亀井家にゆかりのある人を含め、今でも鹿野町民の尊敬を集めています。それに引き替え、池田家は鳥取に何を残したのでしょうね?」
ここで私は思い出した。明治生まれで昭和の終わりごろに亡くなった祖母が、「鳥取城は明治の初めに二束三文で売られて、あっという間に解体されて風呂屋のタキギになってしまった。」と言っていたことを。池田家が領民に敬愛されていたのなら、城の建物全てが即座に跡形もなく消え去ってしまうものだろうか?
家に帰ってから、また別のことを思い出した。司馬遼太郎は「街道を行く」シリーズの取材でほぼ日本全国を旅している。鳥取県も1985年ごろに訪れており、「因幡・伯耆の道」として刊行されている。この中で司馬遼太郎は、因幡の風土と人の営みについておおむね好意的(鹿野町については、特に好意的に)に書いているが、唯一辛口の批評をしている箇所がある。それは、鳥取市内に宿泊していた司馬氏が、鳥取城址の見学を勧められたが断る場面である。以下、その箇所を引用する。
「・・。私は城跡を見ることを好んでいる。しかしわざわざ鳥取城址にゆく気がしないのは、どうも、江戸二百数十年、ぼう大な数の家臣団が、百姓の米を食ってきただけの痕跡を見て、あすから元気に生きましょうという気がおこりそうにないからである。・・」
ここで、私の発想はさらに飛躍した。三段跳びのジャンプである。
「ぼう大な数の家臣団が百姓の米を食ってきただけ」というのは、こと鳥取市においてはいまだに続いているのではないか?
市民に対してはうわべだけきれいごとを言いながら、実際には自分の選挙のために好き勝手に税金を使いまわして来た市長と過半数の市会議員、市の幹部職員、彼らにゆ着して長年利益供与を受けて選挙に協力してきた特定の業界。自分の力では一円も稼げない彼らが税金を食い散らかしたあとの残骸の中で、その本質が一番わかりやすいものは12億円で駅前に建てた、無用の長物のあのバードハットであろう。
江戸時代よりも現在の方がさらにひどいのは、領民の作った米だけでは足りないとばかりに、市民からの税金以外の日本国民が納めた税金も、国からの市への支援である地方交付税・国庫支出金として彼らが好き勝手に食い散らかして来たことである。日本国政府の借金がGDPの二倍超という世界に例がない前代未聞の金額になったことについては、我が鳥取市も大いに貢献してきたのである。
11/16の市会議員選挙では、市民の賢明な選択を期待するしだいです。
/以上