今日、次のような記事に出会いました。
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1960年代の前半に小学生時代をすごした筆者にとっては、夕食のオカズが余ったらご近所におすそ分けしたり、自分の家が風呂を沸かさない日に隣家の風呂に入れてもらったりするのは、当時はごくあたりまえの日常習慣でした。我が家はテレビの購入はかなり遅かったので、家にテレビが入るまでの間は御近所のテレビがある家にお邪魔して一緒に楽しませてもらったりしていました。
この記事を読んで、久しぶりに当時の記憶がよみがえってきました。ただし、この記事で紹介されたような、不特定多数をも対象とした助け合いは経験した記憶がないので、その意味するところは、上で述べた経験とは異なっているのかもしれません。
明治維新以来、日本人は「西欧に学んだ生徒は、アジアでは俺たちが初めて。 どんな分野でも、アジアでは我々日本が一番に決まっている!」と近隣諸国を見下し続けてきました。
でも、そうやって、日本の国全体が西欧を目標とし近代化に邁進した結果、現在では、自分の親の介護も、隣に住む老人や若者の貧困も、全てが税金と保険料収入の裏付けがあってこそ初めて、何らかの対策が始まる社会になってしまいました。カネの裏付けがなければ、命の保証さえも不確実な社会。個人的な不幸も貧困も、社会からの落ちこぼれも、すべてが自己責任の結果と言われてしまう社会。私たちは、本当にこんな社会を望んでいたのでしょうか?
「日本に比べて、はるかに社会発展が遅れている」と言われている国にこそ、今の日本社会に蔓延する閉塞感を打ち破るヒントがあるのではないでしょうか?筆者はいままでベトナムに行ったことはありませんでしたが、この記事を読んで、にわかに、この国に行ってみたいと思うようになりました。
(本場のフォーを食べてみたいという気持ちも、若干有り。)
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