「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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「日本はアジアの静かな中心」であれば、それでよいのだ。

 昨日付の「東洋経済オンライン」を読んでいて、共感できる記事があったので紹介しておきます。

 表題だけから見ると、最近やたらと多い「日本はこんなにすごい!」と一方的に自尊心をあおるだけの、「精神的マスター〇〇〇ョン」をあおるだけの記事かと誤解されかねない。しかし、ご存知のように、著者の沢木氏は世界中を放浪しながら冷徹な眼で外から日本を見つめなおす作業を一貫して続けてきた人であり、そのたぐいの記事とは一線を画す内容です。

 既に70代となった沢木氏は、「アジアの人々が日本に気軽に訪れるようになった今こそ、彼らが日本を見る目を通して逆に我々が日本を再発見できるのではないか」と問いかけています。

「・・・・かつてアジアを旅していたときに私が驚き、感動した対象が彼らにとって意外なものだったように、私たちも彼らが驚き、感動するものを知って、意表を衝かれる。まるで、合わせ鏡で自分の見えないところを見させてもらったかのように。そう、旅人とは、その土地の人々にとって、ひとつの鏡となりうる存在なのだ。・・・」

 ところで、この記事を読んでいて「山口文憲」という名前にぶつかり懐かしく思いました。1980年前後には「面白半分」という雑誌があり、その中には当時香港在住の山口氏のエッセイが連載されていました。この香港報告のエッセイを結構笑いながら読んでいたのですが、先ほどどんな人だろうと検索してみて驚きました。全く知らなかったけど、なかなか波乱の人生を送ってきた人だったんですね。

 海外経験はほとんどアジア専門だった筆者ですが、この記事を読んで自分が初めて海外に行った時のことを思い出しました。大学生だった1974年の11月、下関から関釜フェリーに乗り、一晩波に揺られて一睡もできずに翌朝釜山に着きました。

 釜山では、最初のうちは下関のユースホステルで知り合った30代のドイツ人と一緒に行動していました。一年かけて世界一周旅行中のレンガ職人とのこと。「ドイツでは職人でも一年間も休んで世界一周できるんだ」と驚いたことを覚えています。彼は「日本では無理だったので、これから女を買うんだ」と息巻いて、さっさと街の中へと消えていきました。

 釜山では日本語で話しかけて来た20代の韓国人と知り合ったり(結局はポン引きだった)、ローカル線に乗ったら車内で小銭稼ぎに歌を歌っている人(現地の人によれば単なるコジキ)の唄が演歌そっくりだったり、いろいろとありました。

 開通したばかりの高速鉄道に乗ってソウルに行ってからも、国立博物館で高麗青磁に魅了され、にぎやかにおしゃべりしながら道端でキムチを漬け込んでいるおばさんたちの姿、初めて食べたビビンバが美味しかったこと、早くもマイナス五℃くらいに冷え込むソウルで宿のオンドルの暖かさにホッとする等々、珍しいことだらけでした。

 当時は朴正煕大統領の時代で韓国全土が戒厳令下にあり、うっかり軍施設にカメラを向けてしまって門を警備していた兵士にカービン銃を突き付けられたこと、脱走兵を探して軍の部隊が銃を片手にソウルの繁華街を歩き回っているのを目撃したこともありました。

 しかし、一番印象に残ったのは、夜の街の人通りのにぎやかさでした。どんな小さな通りを歩いていても、屋台がたくさんあって道は人であふれんばかり。ただ通りを歩き回るだけで楽しく、上の記事の中で沢木氏が香港の街を連日歩き回ったのと同様の体験をしました。日本に帰ってきたら、夜の街でにぎやかなのは都市の中心部だけでほとんどの通りには人影はなく、大半の日本人は家の中でテレビを見ているばかりでした。この落差に愕然としたことをはっきりと覚えています。
 
 もう、「沸騰するアジア」の中心は中国やインドにまかせておけばよく、日本はこれからは「静かなアジア」の中心になればそれでよいのではないでしょうか。仕事で疲れたアジアや欧米の人たちが一週間くらいのんびりできる息抜きの場所、それが日本であればそれでよいのでしょう。イージス艦、ミサイル、F-35等々の所有数を誇るよりも、世界の人々に共通して認められる休息と癒しの場であり続けることの方が、この国を守るうえではよほど大切なのだろうなとあらためて思いました。
 
/P太拝