「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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「シンポジウム 倭人の真実-青谷上寺地遺跡-」の報告

 先週末の3/2(土)、鳥取市とりぎん文化会館で開催された弥生時代の遺跡に関するシンポジウム「倭人の真実」に参加しました。会場となった小ホールの座席数は全500席、開演前にはそのほとんどが埋まっており、県民の関心の高さを感じました。

 今回のテーマとして取り上げられた上寺地遺跡の詳細については、wikipediaの「青谷上寺地遺跡」などを見てもらえばよいのですが、発掘物の保存状態が極めて良いことから「弥生の宝庫」とも呼ばれているそうです。今回の講演の目玉は、何と言っても、青谷上寺地遺跡で発掘された殺傷痕のある大量の弥生時代の人骨のDNA分析の結果の公開でしょう。弥生人のDNA分析については、今までは九州出土の人骨のみでの分析が行われてきており、九州以外での弥生人集団の骨の分析は青谷上寺地遺跡が初めてとのことです。このシンポジウムでは、「この上寺地遺跡の分析によって今年が弥生時代の『DNA元年』となった」というような表現が目を引きました。

 国立科学博物館の篠田謙一副館長による講演「DNAが語る青谷の弥生人」の概要を以下に紹介します。最近盛んにおこなわれるようになった古代人骨のDNA分析ですが、その分析対象には、母系を示すミトコンドリア、父系を示すY染色体、全遺伝子の交配度合いを示す核ゲノムの三種類があります。分析の難しさもこの順に高くなります。

(1)ミトコンドリア
 昨年11月の時点で既に公表されていますが、この遺跡の人骨から確認された29の母系系統のうち、縄文人固有の母系を示すハプロタイプM7aの1系統のみであり、残りはすべて弥生時代になってから大陸から渡来した渡来人に固有の母系系統系統であったとのこと。このことから昨年の時点では、「殺傷痕のあるグループの大半は渡来人で構成され、しかもその構成は多様であり、外部から青谷に来て短期的に滞在していた可能性が高い人々」と解釈されていました。

縄文人ミトコンドリアハプロタイプの中で縄文人固有なタイプとしては、N9bが58%、M7aが25%、D4h2が9%、合計で92%。現代日本人では、縄文人固有のそれはM7aが8%、N9bが2%であり、合計10%。
 対して、上寺地遺跡での縄文人固有のミトコンドリアハプロタイプはM7aのみの3%。確かに、上寺地遺跡では、現代日本人での比率よりもさらに渡来系の比率が多くなっています。 参考:wikipedia「縄文人」)

(2)Y染色体
 父系を表すY染色体ハプロタイプについては、現在4体の分析が終わっているとのこと。そのハプロタイプは、Oが一体、C1a1が2体、Dが1体。このうちC1a1Dタイプは縄文系かつ日本列島に固有なタイプ。Oタイプはその大半が大陸の漢民族に含まれており渡来系とのことです。つまり、少なくとも4体中3体が縄文系ということになり、ミトコンドリアの分析結果とは相反する結果となりました。まだ分析数が少ないので断定的なことは言えませんが、弥生末期になっても縄文的要素が多く残っていた可能性が高くなってきました。
 
(3)核ゲノム
 人類の各集団間の混合度合いを推定する手法としては、核ゲノムの分析、すなわち全遺伝子の分析以上に優れたツールはありません。この全遺伝子に関する上寺地遺跡の分析結果については、まだ6体分(Y染色体分析分を含む)しか終了していないとのこと。
 今までの分析結果によれば、青谷上寺地遺跡のそれは意外にも現代日本人の全ゲノム分析結果とほぼ重なる範囲にあるとのこと。この結果は、北部九州の弥生人骨の分析結果とほぼ同様だそうです。
(国立遺伝学研究所の斎藤成也教授の著書によると、現代日本人の核ゲノム全遺伝子に占める縄文人由来の遺伝子は、12%から20%の範囲にあるとのこと。)

 弥生時代の始まりはBC1000年頃、青谷上寺地遺跡の集団人骨は二世紀後半、即ちAD100年代後半のものであり、弥生時代の初めから1200年近くの間、大陸から人が次々に渡来し続けていたとすれば、縄文人と渡来人は既に十分に交じり合っていたと考えてもよいのではないかとのことでした。

 シンポジウムの後半では、篠田副館長、「青谷上寺地遺跡をの弥生人をとりまく古環境」の表題で今回講演をされた韓国慶文化財研究所の安特別研究員、弥生時代を専門とする考古学者である国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎教授の三者によるパネルディスカッションが行われました。その発言の一部を以下に紹介しておきます。

藤尾 「二世紀半ばは降水量の変動が激しく、青谷平野のように水害の影響を受けやすい地域ではコメの収穫量が大きく変動した可能性がある。飢饉の年には集落間で戦争が起こって大量殺戮の原因となったのかもしれない。この時期は魏志倭人伝にある「倭国大乱」の時期にほぼ重なる。
 この遺跡で発見された大量の人骨は、いったん重なり合うように埋められた後で一度掘り返されており、骨が散乱しているのはその結果。掘り返された理由はよくわからない。」

篠田 「今回のDNA分析結果はまだ解析途中であり確定的なことは言えない。また、渡来人のDNAについては、韓国や中国の古人骨のデータがまだ不十分な状態であり、その進捗を待ちたい。
 現在言えることは、青谷上寺地については、少なくとも当時の韓国南部とはかなり重なるDNAを持っていたのではないだろうかということ。またDNAの構成から見て、当時の北九州と青谷上寺地も同じ位置づけにあったと思う。定住ではなく互いに行ったり来たりしていたのが、当時の各地の住民の姿だと思う。」

安 「当時の上寺地遺跡の周辺には平地に杉林が豊富にあり、住民はこの杉を使って水路の護岸や建築物を整備していた。同様の平地の杉林は湖山池周辺、さらに福井の三方湖付近にもみられる。
 韓国には杉の木はないので、渡来民は青谷の杉林を見て驚いたのではないだろうか。上寺地遺跡の周辺からは、トチ、クリ、クルミ、モモ等の実、アワ、キビなどが出土しており、水田以外にも畑や果樹林があったようだ。」

藤尾 「DNAから見ると、上寺地遺跡は閉鎖的な集落ではなくて、各地との交易の拠点であったと思われる。鉄器、木製品が豊富に出土することもそれを裏付けている。韓国南海岸の勒島(ヌクト)遺跡からは、上寺地とそっくり同じものがいくつも出ている。
 二世紀の後半は、それまでの銅鐸や銅矛などの青銅器を対象とする祭りから、卑弥呼を主とするヤマト王権への祭祀への過渡期。淀江妻木晩田遺跡も二世紀後半が最盛期。これら他の集落との関係が当時どうであったのか、大量殺戮に他の集落が関わっていたのかどうか、大変興味深い。」

 以上で今回のシンポジウムは終了。

 なお、パネルディスカッションのコーディネーターを務めたのは、県埋蔵文化財センターの濱田竜彦係長。各発言者への話題の割り振りは適切、かつ全体の議論の進行管理もスムーズに感じました。事前の調整があらかじめあったのでしょうが、その働きは高く評価されてよいと思いました。

 参考までに、弥生末期当時の青谷平野の想像図を下に示しておきます。現在の青谷平野の状況と見比べてみてください。

弥生時代の南側から見た青谷平野(想像図)
イメージ 1

・現在の青谷平野
イメージ 2


 上寺地遺跡は、日本海側に多数ある潟湖を利用した交易を主とする集落であり、このような地形を利用した弥生時代の集落は、県内には淀江東郷池周辺、湖山池周辺等、数多くあります。これらの集落相互の関係はどうだったのか、交易の主導権をめぐって互いに争うことはなかったのかが気になるところです。

 上の想像図は、安研究員が大学院生として日本に留学されていた当時、同女史が青谷で発掘した花粉の分析結果から推定した植生をもとにして書かれたものです。日本に留学していただけあって、安さんは流ちょうな日本語で講演されていました。

 また、今回の分析結果で注目されるのは、この遺跡に限定したことではなく日本全国での傾向として言えることですが、渡来人系も縄文人系も、母系と父系での比率の大小の違いはありますが、ともにかなりの比率を維持しつつ交じり合っていることです。

 ある人類集団に対して別の集団が暴力的に侵略した場合には、その結果として、父系には侵略者側の、母系には被侵略者側のDNA比率が高くなることが一般的であると言われています。中南米地域はその典型例であり、スペイン人を主とする侵略者側は男性がほとんどであり、侵略後は現地のインディオ女性を妻とし、インディオ男性は殺すか奴隷として酷使しました。まだ詳しいデータを見つけてはいませんが、そのような侵略の結果として、現在の中南米の混血系住民の大半の遺伝子では、父系はスペイン系、母系はインディオ系になっているものと思われます。

 13世紀に東アジアから東欧にかけてユーラシア大陸の大半を武力で征服したあのジンギスカンと同じタイプのY染色体をもつ男性が、一説によれば、今日の世界には千数百万人はいる(真偽のほどは不明)と言われているのも、別の例にほかなりません。

 現在の日本人で、父系母系ともに縄文系と渡来系の遺伝子比率で大きな差がないという事実は、大陸からの渡来が暴力的ではなく平和裏に行われたこと、男性集団のみの渡来ではなくて家族を伴ってこの列島へ渡来してきたことを示しているものと考えられます。弥生末期には集落間の抗争がかなり発生したとはいうものの、約三千年前から二千年くらい前までは、我々のご先祖様の片割れである縄文人が、同じくご先祖様のもう一方の片割れである渡来人をおおむね平和裏に受け入れていたという事実は、今後の日本社会の在り方に対して示唆するところが多いように感じました。
 
 なお、筆者の母親の里は、この上寺地遺跡のすぐそばにある小集落。約二千年近くも昔の話ということもあり、今までは、この遺跡に住んでいた人たちは自分とはあまり関係のない人たちだろうと思っていました。しかし、今回、DNAが現代の我々とほとんど変わらないという事実を聞いて、なぜか急に身近に感じるようになりました。あの大量殺戮された人たちの中には、ひょっとしたら、私自身のご先祖様、あるいはその御家族が含まれているかも知れませんからね!

 最後に、青谷の話題ついでに、当日配布されたパンフの末尾に載っていたコラム二編のタイトルを紹介しておきましょう。著作権の関係があり、ここで全文を載せることは出来ませんが、県の埋蔵文化財センターに問い合わせればパンフ入手は可能なのではないでしょうか。保障はできませんが・・・。

「青谷人の気質」
 最近批判されることの多い、因幡地域固有の『煮えたら食わぁ』精神の擁護論です。今どき珍しい内容。

「青谷の子どもは、ええ子だで」 
 読んでホッコリしました。子供たちへの筆者の視線の温かみを感じました。
 
/P太拝