「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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2019年のベトナム(4)

ハノイ滞在も三日目、今日が最終日。

同行の友人はアメリカの何十回もの北爆に耐えて残ったロンビエン橋ハノイ駅からHanoi railway street を経ての鉄道も通っている)を見にいくとのこと。自分はやはり金正恩を見てみたかったので、今日も別行動をとることにした。

8時過ぎだったろうか、ホテルの部屋に残ってテレビをぼんやりと見ていると、突然、画面に金正恩が現れた。中国との国境にある駅で専用列車から降りて車に乗り換えるとのこと。

国境からハノイまでは100kmちょっとくらいしか離れていない。「二時間後には来るな」と踏んで、そのままテレビを眺め続けていると、短いが印象的な番組があった。当時の日記にそのことを記していたので、そのまま引用しておこう。

「・・部屋に残ってテレビを見ていたら、国営放送でタイ族?(ベトナムでは少数民族)の暮らしを紹介していた。衣服は紺色、生活用具のほとんどは竹製、木陰にある高床式の家、川沿いの菜園、炉端でいぶした獣肉、シミ一つないキレイな肌の娘さん、すべてが静謐で美しい。観光目的で編集されているのだろうが、「ああ、行ってみたい」と感じた。・・」

この番組が終わり、部屋に居ても退屈なので現地時間9時頃に外に出ると、ホテルの横の道路には警官が立ち、すでに封鎖が開始されていた。

(以下の図・写真はクリックで拡大します。)

 

迎賓館斜め前のベトナム国立銀行の正面には米朝両国の巨大な国旗が飾られていた。昨夜のテレビでは、真夜中近くまで大勢でこれを作っている場面を実況中継していた。(もっと早く作っておけばよいのに・・。)

 

オペラハウス前からホアンキエム湖にかけての通りは途中で通行止めになり、既に大勢のヤジウマが集まっている。筆者もこのヤジウマの群れに加わることにした。

 

取材陣がたむろしている地点からオペラハウス側を見る。テレビの取材陣はKBSなどの韓国勢が大半のようだ。

 

ずっと待っているのも退屈なので、店を覗きながらこの周りを少し歩いてみる。近くの病院から抜け出して来たらしい女性看護師の皆さんが、路肩に座っておしゃべりしている。「仕事しないでもいいの?」と聞いてみたかった。

絵を売っている店がいくつかあった。昨日に美術館で見たとおりで、シルクスクリーンの絵はなかなか良い感じだ。

一般に経済が成長する時期には絵の需要が高まるらしく、1960年代の日本では印象派などの西欧絵画の複製がよく売れていた。ベトナムも高度経済成長期に入ったようだ。

中国では2000年代に入ると一気に画商の数が増えたが、彼らが売っている絵のレベルは実にひどいものだった。「こんな絵は、自分の家の壁にはカネをもらっても絶対にかけたくない!」と思うようなものがたくさんあった。それに比べるとベトナムの油絵のレベルは幾分かマシなようだ。

さて、待つこと約一時間、11時近くになってから先導車がようやく現れた。我々のいる交差点を迎賓館とは反対方向の右へと曲がっていく。

 

続いて白バイの一団。

 

と、何たることか!ここで我がカメラに電池切れの表示!眼の前を装甲車、次に黒塗りの乗用車が続いて行く。このパターンが三回ほど繰り返された。

顔を出して手を振ることなどは予想していなかったが、やはり乗用車の窓は完全に締め切られており、どの車に金正恩が乗っていたのかはわからずじまい。肝心な所で車の写真すら撮れなかった。あわてて近くのコンビニに駆け込んで電池を買ったが、後のマツリであった。

マツリが終わって引き上げる人々。

 

車列は通過してしまった。さて、次はどこに行こうか。

オペラハウスの横に国立歴史博物館があるので、そこに行ってみたら昼休み中とのこと。近くの路地には、先ほど通過したはずの装甲車が四台停めてあった。

平気で写真を撮っている人たちがいて、自分もそれにならって撮影したが、これは少なくとも今の中国では絶対に避けるべき行為だろう。許可なくして軍の装備を撮影した場合、特にそれが外国人によるものであればスパイ扱いされかねない。

 

1974年に初めての海外旅行で朴正熙政権の戒厳令体制下の韓国に行った際、ソウル市内で軍施設の正門についついカメラを向けてしまい、衛兵にカービン銃を向けられてホールドアップしたことを思い出した。

ここベトナムでは、兵士が装甲車の横にいたものの何のお咎めもなかった。この日の午後には、すぐ近くでさらに驚くようなことがあったが、それについては後述。

博物館の近くでフォー(美味!)を食べてから、時間つぶしのために少し歩いて南西にある統一公園に行くことにした。

着いてみると広々とした公園で、人はほとんどいない。公園に接するバイマウ湖の岸辺で釣りをしているおじさんたち。キレイとは言えない池の水だが、いったい何が釣れるのだろうか。

 

ゴム製のパチンコでスズメを狙っている男性二人。子供の頃は、日本でもこういう光景をよく見かけたなあ。もちろん、今の日本では、行政の許可なしに勝手に野鳥を獲ることは禁止。

 

この公園の一角には、かなりの広さの菜園があり、数名の人たちが農作業をしていた。ベトナムでは食品の安全性に対する関心が高いようで、数年前の日本での報道によると、残留農薬があるとの理由でベトナムで中国産野菜の不買運動が起こっているとのことだった。ここの野菜も無農薬で栽培しているのだろう。

公園で時間をつぶしてから歴史博物館に戻ろうとしてクアンチュン通りを歩いていると、その途中に日本の「国際交流基金」が入っている建物があった。

 

今回の旅行で日本に関係するものを見たのは、この後で触れる博物館の展示以外では、この建物と圧倒的シェアのホンダのバイクだけだった。

後で調べたら、ベトナム在留外国人の中で一番多いのが韓国人とのこと。日本人在留者の数倍はいるらしい。サムソンの携帯電話の巨大工場がハノイの近くにあることも影響しているのだろう。

もう少し先に行くと、とある交差点に取材陣が集まっていた。どうやらすぐ近くのホテルに金正恩が入ったようだ。今夜、このホテルにトランプも入るのだろう。下の一枚目の写真の右端に見える高層ビルがそのホテル。

 

今回この記事を書くにあたって調べてみたら、このホテルは「メリアホテル」という五つ星ホテルであった。迎賓館で会議かとの、昨日までの見立ては空振りに終わったのである。

この日の夜にテレビのニュースを見ていたら、金正恩御一行様はハノイの中心部をグルグルと回ってからこのホテルに到着したとのこと。取材陣をかわすためなのか、安全性を考慮したのか、極端にテロを恐れる金正恩側の要望をベトナム側が受け入れて配慮したのだろう。

このトランプ-金正恩会談だが、結局は会談の途中でもの別れとなり完全な失敗に終わった。両者ともに相手の真意を読み違えたままでこの会談に臨んだのがその理由とのこと。結局、この米朝会談騒動で存在感を示せたのは、米朝のどちらにも顔が利くことを世界に示せたベトナム政府だけだったようだ。

「米朝破談を招いた"お互い勘違い"のお粗末」

 

さて、15時近くになってから、オペラハウスの隣にある歴史博物館にようやく入館。入場料40kドン(=¥200程度)+カメラ持ち込み料15kドン。展示室に入ると、真っ先に大きな船の絵が眼に飛び込んできた。

説明板によると、この船は17世紀初めに日本からベトナム中部のホイアン港にやって来る御朱印船を日本の画家が描いたものとのこと。下に船の後部を拡大した写真を載せておいたが、確かにチョンマゲ姿の男たちや日本風に髪を結った女性の姿が見える。

 

この当時、ホイアンには日本人街も形成されたとのこと。今回調べていて見つけたサイト「Nguyen lords -wikipedia-」には、ホイアンの上級官僚に贈り物をしている日本人商人の姿が紹介されていた。

面白いのは、この絵の右下の現地の兵士と思われる三人連れの姿だ。うち二人が明らかに日本刀と思われる長い太刀を、腰に差すのではなくて肩にかついでいる。

他の絵を見ても、兵士と推測される人物は皆が日本刀を肩にかついでいる。(こんな持ち方で、いざという時に刀が役に立つの?)服装が中国式で帯をしていなかったこと、また日本刀が一般的な武器として現地で重用されていたことが判る。

次に注目したのが、昨日の美術館でも見かけたドンソン文化の銅鼓である。日本の弥生時代とほぼ同じ時期に当たるのだが、特に注目されるのはこの銅鼓に刻まれている船の模様だ。その図柄も下に示す。

 

舟に乗っている人物は鳥の羽と思われる飾りを頭に装着しているが、実は日本の弥生時代の遺物でもこれと似た図柄が見つかっている。米子市淀江町の角田遺跡で発見された土器に描かれた舟の絵がそれである。

下に米子市による資料の絵を転載しておこう。土器に線書きしただけの絵なので稚拙なのはやむを得ないが、頭の鳥の羽根の飾りがベトナムの銅鼓の絵と共通している。

 

多人数で漕ぐボートというと長崎のペーロンや沖縄のハーリーなどのいわゆる「競漕」が思い浮かぶが、これらの風習は元々は中国の長江周辺が発祥地とされている。

「ドラゴンボートの歴史」に見るように、古代中国の春秋戦国期の屈原にからんだ発祥伝説が有名だが、当時の漕ぎ手も鳥の羽根飾りを頭につけて漕艇競争をしていたのだろうか。いずれにしても、紀元前の長江周辺の水上生活における風習が、水田稲作の技術と一緒になって日本やベトナムに拡散移動してきたことは間違いなかろう。

この歴史博物館の主要な展示は、当然、ベトナムの歴史に関するものだが、20世紀のフランスや米国との戦争に関する展示は無かった。それらは、どうやら一昨日に訪れた時には休館日だった軍事博物館の方に展示されているようだった。

古代から近代までの歴史については、上に示した日本との関わり以外は長くなるので省略するが、その概要だけを示しておこう。

以下、「ベトナムの歴史 wikipedia」、及び 中公新書「物語 ベトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム」より

①「南越国」(BC207~BC111) 中国華北出身の趙佗が漢王朝から独立して建国。現在の中国の広東省江西省からベトナム北部までを含む。

②「北属期」(BC111~938) 漢から唐までの中国王朝支配期。この間には短期ではあるが、一時的な中国からの独立を合計七回も得ている。

③「独立王朝時代」(938~1945、うち1887以降はフランスの植民地) 九つの王朝が次々に交代。この間に南進(中部のチャンパ王国、南部のカンボジア領を圧迫・併合)が進む。

 

小国のベトナムが、圧倒的な軍事力を有するフランスや米国を激しいゲリラ戦の末に追い出したことには驚くしかないが、同国の歴史を知ることで、ベトナムが二千年近くも前から同様なゲリラ戦法で中国の侵略を撃退し続けていたことがよく判る。

興味深いのは、②~③の間に何十回となく中国の侵略を撃退しながらも、その一方で撃退した直後でも中国への朝貢を欠かさなかったことである。巨大国家中国に対するこのようなベトナムの硬軟取り混ぜた対応は、今後の日本にとってもかなり参考になるのではなかろうか。

有史以前にはベトナム人(キン族)の祖先は中国南部に居たとの説が有力であり、その中には長江河口域の浙江省に由来するという主張もある。日本の弥生時代に大陸から渡来して来た人々も、長江下流域の呉や越の国から流れて来たという見方が有力である。

現代日本人の持つ遺伝子プールの半分以上がこの長江下流域に由来するとも言われている。数千年前、我々の御先祖の一部とベトナム人の御先祖の一部が長江周辺で隣り合わせに暮らしていた可能性はかなり高いのかもしれない。

ちなみに、筆者は会社員時代にはベトナムに近い広東省に頻繁に長期出張していたが、地元出身の人たちは概して小柄で色黒、東南アジアの人びとに共通するものがあると感じていた。遺伝子面で見れば、中国南部とベトナム北部の共通点は非常に多いだろう。

一方、中国北部の華北地域出身の人は、大体が背が高くて恰幅がよく色白、眼が細い。習近平や、日本に来ているモンゴル出身の相撲取りがその典型例。

中国中部の長江流域の人たちは、大体が中肉中背で日本人によく似ている感じがした。個人的には、長江に近づくほどキレイな女性の割合が増えるようにも感じていたが、これは自分が育った環境に似ている場所や人に対して好意を持つという心理の反映なのかも知れない。

浙江省の低い山に囲まれた水田地帯の中を車で移動していた時には、「まるで鳥取県内の中山間地の中を走っているみたい」と感じたほどだった。人だけではなく風景までもが日本にそっくりであった。

蛇足になるが、アルコールを体内で分解するとアセトアルデヒドが生じるが、さらにそれを速やかに酢酸へと分解できる酵素を持つのが人類の生理的デフォルトである。

しかし、東アジアの国々の中には、アセトアルデヒドを速やかに分解する酵素を欠いていて酒を飲むとすぐに顔が赤くなる人たちが一定の割合で存在する。この変異型の起源は中国南部にあったという説が有力であり、現代日本人の中で酒に弱い人達は、この弥生人に由来する遺伝子を日本人の平均よりも多く持っている可能性はかなり高いだろう。

さて、このハノイの歴史博物館で一番驚いたことと言えば、展示ではなくて館外に見たある光景であった。館内の二階か三階だったか、窓際を通り過ぎようとしたら外で大きな歓声があがった。ふと窓の外を見ると、迷彩服を着た兵士が十人ほどと、女子高生くらいの年齢の女の子のやはり十人くらいが、博物館の中庭で何かのゲームをやっている。

地面に幅が狭い木の板を何枚か立てて並べ、その上をボールを行き来させている。地面の上でやる卓球のような遊びなのかもしれない。失敗したり得点を挙げたりするたびに、皆で冷やかしたり笑ったりしている。「何とまあ、ユルイ軍隊!」というのが見た直後の感想。

時刻はまだ現地時間で午後四時くらい。勤務が終わったわけでもなかろう。中庭の向こうのオペラハウスとの間の道路には、上に写真で紹介した装甲車四台がまだ停まったままである。その横でその装甲車に乗って来た兵士たちが近所の女の子たちとゲームをして遊んでいる。「なんと素晴らしい!?」

中国の人民解放軍や日本の自衛隊で勤務中の隊員が近所の女の子とゲームをして遊んでいたら、よくて始末書、事と場合によっては営倉行き(?)ではなかろうか。このベトナム軍のユルサには本当に恐れ入った。しかし今になって思いなおしてみると、ゲリラ戦を長期にわたって戦うためには、このようなユルサも案外必要なのかも知れない。

 

博物館を出てホテルに帰る。途中、昨日までは米朝会談の予定会場ではと噂されていた迎賓館の近くを通ったら、そのすぐそばの公園で男性数人がバトミントンで遊んでいた。下の写真はこの日に撮影したものだが、前日の夕方にも、この公園で男性数名がバレーボールをして遊んでいた。

 

日本や中国だったら、何日も前から立入禁止にして、危険物がないかと警官が周囲のビルや植え込みの中をシラミつぶしに調べていただろう。

今回は本当の会談の場は別のホテルだったのだが、これが日本や中国の政府だったら、テロに対する偽装のために市内各所をわざと立入禁止にしていた可能性は高いだろう。このノンキさ、ユルサも、ベトナムならではの光景だった。

ホテルに帰って友人と合流。橋を見に行った後は、郊外のバッチャン村に行って特産の陶器を何点か買ったとのこと。我々は真夜中の便に乗るので、他の客向けに使うとのことでホテルの部屋から追い出されてしまった。

ロビーにずっと座っているのも退屈なので、荷物をフロントに預けておいて近くの街中をグルグル回る。夕食は、近くの店で雷魚のフライと細葉パクチーが入っているブンを食べた。この店のスープには酸味がきいていた。

夕食後、枯れた雰囲気のお爺さんが一人でやっているカフェに入ってコーヒーを飲んだ。たまたま見つけたスーパーで土産を探すが適当なものが見つからず、フォーの即席麺を数個買う。(日本ではパクチーは初夏にならないと出回らないので、六月になってからパクチーと一緒に食べてみたが、なかなか美味であった。)

時間つぶしにまた同じカフェに入る。我々と再会したお爺さん、一瞬は驚いたものの、ニコニコ笑って再び歓迎してくれました。

ホテルのロビーに帰って空港行きのバスに乗る。ちょうど、ハノイ空港にトランプの専用機が到着したために空港内外に滞留していた人たちが一斉に動き始めた時刻だったらしくて、空港への高速道路は大渋滞。

機転を利かせたバスの運転手が高速を降りて一般道を走ってくれた。おかげで現地時間0:55発の帰国便には余裕で間に合った。しかし、出国ロビーも大渋滞、結構、イライラ。

機内に搭乗後はシートに座ってあとは寝るだけ。だが一日目の記事に書いた通りで、座席間隔が異常に狭くて眠れない。眠くなった時、ずっと同じ姿勢で座り続けることがこんなに苦痛だとは思ってもいなかった。

帰りの便は実質5時間程度で、行きの6.5時間よりは短かったものの、成田に日本時間8:00に着いた時にはフラフラ状態。格安便のベトジェット利用でベトナムに行かれる方には、せめて行き帰りともに昼間の便に乗ることを強くお勧めしたい。

これで三年半前のハノイ旅行記はおしまい。と言いたい所ですが、旅行中に色々と感じたことをもう一回くらい書く予定です。

/P太拝