「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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鳥取市役所に冠水被害を連絡したら・・・

 正直言って、昨日読んだこの記事には本当にあきれた。

「冠水被害を連絡したら…市コールセンター「閉庁日だから、月曜にかけ直して」」

 最初に読んだ記事は「マイクロソフトニュース」のサイトだったが、他のサイトでも同じ内容が続々と報じられた。昨日のうちに「ヤフー」、「ライブドア」、「goo」等々の主要ニュースサイトで一斉に日本全国に向けて報じられているのを確認した。記事の内容はみな同一であり、いずれも読売新聞の記事を転載したもの。まさに恥さらし、全国の嘲笑の的と化した鳥取市である。

 今日、もう少し調べてみたら、地元日本海新聞オンラインが9/16付で同様の記事を載せていた。同サイトによると、この事実が判ったのは記事の前日の9/15とのこと。この記事内容を読売新聞が取り上げたことで、昨日になってから一気に広まったようだ。上のリンクは最初に確認したマイクロソフトニュースに張っているが、数日中に消される可能性も高いので、あらためてその主要部分を以下に抜き書きしておこう。

 

『市民からの問い合わせなどに対応する鳥取市のコールセンターが今年6月、大雨被害を知らせる電話連絡に対して、当初、翌日に電話をかけ直すよう伝えていたことがわかった。
 連絡をしたのは市議で、市やこの市議によると、県全域に大雨洪水警報が出た6月14日、市内の道路が膝上まで冠水しているとの情報を伝えるため、市議が市に電話をかけた。コールセンターにつながり、道路課に電話を回すよう要請したが、当初は「(日曜で)閉庁日のため、月曜にかけ直してほしい」と返答されたという。そこから数分間、現場の状況についてのやり取りがあった末、道路課に電話がつながったという。
 市は昨年9月から、代表番号にかかってきた電話にコールセンターが対応する方式を採用。緊急時などには、市の管理室を通して担当職員らに電話をつなぐことになっていた。市は電話対応に不備があったことを認めたうえで、「緊急連絡の受け付け態勢を徹底したい」としている。』

 

 防災対策のための部門として危機管理課を設置し、日頃から市民に対して防災意識の徹底を再三呼び掛けてきたはずの鳥取市が、市民からの、しかも市会議員からの冠水発生の連絡をいったんは無視したのである。しかもその理由が「今日は日曜日だから・」というのでは、開いた口がふさがらない。いったい鳥取市の危機管理体制はどうなっているのか?

 あらためて事実を確認しておこう。アメダスの記録によると、鳥取市では今年の6/11から6/14にかけての四日間連続して降雨があり、特に当日6/14の降雨量は78.5mm、前日の6/13の降雨量は99.5mm。四日間の総降雨量は212mmであった。

 近年の鳥取市の年間降雨量は平均で約1900mm、四日間で年間降雨量の一割以上が降れば、市内のどこかで水害が発生しても不思議ではない。このような状況下でも市の担当部局はなんの危機感も抱かず、市民からの緊急通報への対応をコールセンター任せにしていたのである。

 さて、いったい市内のどこが冠水被害を受けたのだろうか。県の公式サイト「鳥取県の危機管理」の「災害情報一覧」を見ると、「6/13からの大雨による被害情報等」が載っている。その中の6/15 AM8時時点公表の資料の中に「住家被害の発生状況」が載っている。

 その記載によると、「6/14 18;30 鳥取市福部町高江で床下浸水一軒発生」とあるので、被害が発生したのは福部町のJR福部駅前地区のようだ。このあたりは、近くを流れる塩見川の越水によってしばしば冠水が生じる地区である。また、市役所に電話をかけた市議も推定できた。福部町在住で公明党所属の前田市議だろう。興味のある方は、同市議のブログの6/15付の記事を参照されたい。

 今回の不祥事(「市内で火災発生」との電話を受けた消防署が、「今日は日曜日だから、その件は明日また電話して」と言っているようなものだ。これを不祥事と言わずして何と形容するのか?)を産んだ背景を、筆者なりに以下にまとめてみたい。

 

(1)上に示した不適切な対応をしたのは直接的には市が契約して業務を委託したコールセンターの担当者だが、コールセンターの業務の拠点は、北海道や沖縄、はては日本語学習者が多い中国大連市など、人件費が安いとされている地域に設置している業者が大半である。

 鳥取市内にも某業者のコールセンターの拠点があるが、市が同所に業務委託しているかどうかは、実際の契約を見なければ何とも言えない。おそらく鳥取市の実情を全く知らない担当者にしてみれば、市民からの電話への応対の指針となるのは鳥取市から提供された業務マニュアルにしかないはずだが、その中には「閉庁日の災害発生連絡に対する対応方法」は明記されていたのだろうか?仮に明記されていたとしても、提供したマニュアル通りに実際の業務が運営されていることを、市はコールセンターの現場に行って確認していたのだろうか?

 コールセンターの担当者の不注意が今回の不祥事の直接の原因だったとしても、そのような管理不行き届きな業者を選び、かつ実務能力へのチェックを怠った市担当部署(総務部?)には業者選定に関する責任が、最終的には各部署のそのようなルーズな対応を黙認した深澤市長に今回の不祥事の責任があることは明らかである。
 
(2)今回の騒ぎで明らかになったことは、市の危機管理課という部署は、いったい何を担当しているのかということだ。電話した市議は数分間やりあったあげくに市の道路課につないでもらったそうだ。筆者は、危機管理課という部署は災害発生には前面に出て市の各部署に適切な指示をするのが任務と思っていたが、どうやら全く誤解していたようだ。平時に災害対策の青写真は作るが、実際の災害発生時には他部署の後ろに引っ込んでいるだけらしい。
 数年前の大雪の際、いつまでも町内の除雪が進まないために、雪が降った三日後に危機管理課に当会会員が乗り込んで行って「いったいこの間、この課は何をしたんだ」と問い詰めたことがあった。担当者の答え曰く「県に電話を一本かけました」との返事だったそうだ。
 今日も、ある会員から、旧袋川の堤防に穴が開いているので市に電話したら「それは県の担当なのでそっちに電話して」と言われただけだったと聞いた。市の防災担当部門はいったい何のために存在しているのか?単に電話の取次ぎや転送しかしていない部署は即刻廃止し、その窓口は県に統合して一元化すべきだ。

 現在、危機管理課は約十人の人員を抱えている。市の正職員の給料は県の正職員よりも高い。市財政ひっ迫のおり、付加価値のある仕事をしていない市の正職員はリストラして、その業務を県に統合すべきである。

 

(3)最近の当会の公式サイトでは、事あるごとに「市業務の全面的外注化」の問題点を指摘してきた。新庁舎の窓口担当職員の大半は、既に東京の上場企業であるニチイ学館からの派遣職員に置き換わった。市のゴミ収集事業、可燃物処理事業、下水道処理事業、市の各種施設の運営、市立保育所の実務等々の担当は、既に外注民間業者、市設立の外郭団体、市が一時的に雇用した非常勤職員等々にまかされてしまった。旧本庁舎の跡地活用問題では、今まで市職員自から行っていた市民へのアンケート調査や意見聴取さえも、今年からは外部業者に丸投げしてしまった。

 いったい市の正規職員はどのような付加価値のある仕事をして、我々市民の納める税金からその対価としての給料を受け取っているのだろうか?市内の勤労者の中で一番生産性の低いのが市の正規職員ではないのか?

 鳥取市の市職員の約半分が非正規である。この比率は同規模の人口の国内各都市の中では異常に高い。外注業者は別として、市外郭団体職員や非正規職員の年収は、おおよそ、市正規職員の二分の一から三分の一である。鳥取市自らが市内の格差拡大を促進しているのである。

 このような経緯の結果、市の正規職員の主な仕事は新庁舎の会議室で会議をするだけになったかのように見える。

 その結果、

①市正規職員が現場の実態を知らない。

②市正規職員の実務能力の低下。

③実務経験がないために、外注業者が出してくる見積もりを市正規職員が精査できない。その結果、市の財政に、ひいては市民に対して損害を与えかねない。

等々の弊害を生じるようになった。防災対策における今回の不祥事は、まさに鳥取市の行き過ぎた業務外注化の弊害の具体例というほかはない。

 

(4)深澤現市長の経歴は、市職員から副市長、さらに前市長からの後継者指名を受けての市長当選であった。2012年の三つ巴となった市長選での同氏の当選は、当時の市職員の応援によるところが大であった。 

 当然、自分の元々からの仲間である市職員には極めて甘い。今の市長は、市正規職員に対しては何事につけても厳しく対処できない。今回の不祥事は、このような市長の市職員に対する甘さがもたらしたものという見方も当然ある。

 最後に言いたいこと。

 今回のようにずさんな現在の災害対策を今後も放置しているようでは、近い将来に必ず発生する災害時には、鳥取市は他市ではあり得ないほどのブザマな災害対応を露呈しかねない。

 今後、我々の鳥取市が日本全国に対してこれ以上の恥をかかないためにも、市長と市職員の全面的な反省と早急な改善とを求めたい。

/P太拝

内閣支持率は常に右肩下がり

 菅新政権が発足したとたんに、内閣支持率が6~7割へと急上昇した。新首相自ら「前内閣を継承する」と公言しているのに、何で前内閣の末期の支持率が一気に二倍にまで上がるのか?実に不思議だ。日本人に特有の「新しいモノ好き」現象の一種かもしれない。

 そう思って過去の内閣支持率の推移を調べてみた。菅政権成立直前までのデータを見つけたので下に示しておこう。各内閣の支持率推移はその大半が右肩下がりとなっている。特に今世紀に入ってからは、全ての内閣が右肩下がりだ。一方、'50年代から'80年代にかけては、各内閣の任期内での支持率はやや減少傾向にあるものの大きな変動を示してはいない。当時の日本国民は「総理を誰にするかを決めるのは、我々ではなくて雲の上の人たち」と思いこんでいて、あまり関心を持たなかったのかもしれない。

 このグラフを見ていると、長期間安定していた自民党政権が突然終わったという点で現在は小泉内閣の終了時に似ているように見える。先回と同じように短期政権が何代も続くことになるのだろうか。

 

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 元々のグラフがやや見づらかったので、1980年代以降の各内閣の区切りとして細い縦線をいれた。また、内閣発足理由が直前の国政選挙の勝利によるものである場合には、内閣名を赤い四角で囲んだ。
 1980年代以降で見ると、赤い四角で囲んだ政権はわずか三つしかない。このうち細川内閣は日本新党などの複数の野党が連立して成立したものである。第一党の政権交代による新内閣は、鳩山内閣と第二次安倍内閣のたった二回しかない。

 これは、この期間の大半において自民党が常に第一党であった結果、もっぱら、自民党内の権力争いに過ぎない総裁選の結果で内閣交代が行われてきたためである。今回の菅内閣の誕生も実質的には前首相の後継指名によるものであり、その意味で、日本の政治は再び先祖返りしてしまったとも言ってよいだろう。

 さて、選挙で勝利した陣営による新内閣の支持率が高くなるのは当然のこととして、前政権と同じ党派に属する人物が代わって総理になっただけに過ぎない場合にも、なぜ支持率が急激に上がるのか?単に看板を掛け替えただけなのに、かくも歓迎されるのはなぜなのか?外国ではどうなのだろうか。

 今のところは直感的な推測でしかないが、「特に日本人には、新しくやって来たものには何でも価値があると思い込みたがる」傾向があるためではないか。新しい流行に先を争って飛びつくことで、まだそのことをよく知らない周りの人間に対して自慢することができる。最近の例ではタピオカ、ハローウィン小泉進次郎・・・、いずれも一時的には大流行するが、やがて飽きられて捨てられる。新首相の高支持率も一過性消費行動の一変種なのかもしれない。日本人の大きな特徴が、この「何でも水に流してしまう軽薄さと芯の無さ」にあることは間違いなかろう。

 小泉内閣の時には、小泉純一郎首相が選挙応援で地方に行くたびに、ジジババが大挙して会場に押しかけてきて、サインや握手を求めて興奮状態になっていた。その様子を報じたテレビニュースを見て「こいつら、バッカじゃない?」とあきれた記憶がある。

 「郵政民営化」の意味も理解できないままに、ただ首相の外観がカッコいいというだけの理由で熱狂していたのである(アホか!)。あの「郵政民営化」とは、米国金融業界の要望を汲んだ米国政府によって、日本国内の巨額(約350兆円)の郵便貯金残高を狙って仕掛けられたものであるという見方が、今では一般的である。

 日本人のもう一つの特徴は、自らの過去の歴史に全く学ぼうとしないことである。学ばないがゆえに同じ失敗を何度でも繰り返すが、自分たちが失敗したことすらすぐに忘れてしまう。一向に反省することが無い。

 小泉内閣にキャーキャー言っていたあの高齢者たちは、小泉内閣が2006年に強行採決した「後期高齢者医療制度」が2008年に福田内閣により施行されたことによって、小泉内閣からの最後のプレゼントを、自らの年金から医療保険金を天引きされるという冷や水を浴びせかけられた。

「後期高齢者医療制度は小泉政権下で強行採決されたもの」

「後期高齢者医療制度の作られ方 」

 現在、菅内閣に拍手している人々が、将来同じような仕打ちを受けないことを願うばかりである。

/P太拝

アベノミクスの成果とはいったい何だったのか -求人倍率は本当に上がったのか?-

 過去数年間、鳥取市政を観察していて判ったことがある。与党議員は、与党に属していること自体に大きな意義と利益とを見出しているということだ。与党である限りは行政側の情報を野党よりもいち早く入手できる。同じ与党である首長を介して市職員に個別に圧力をかけることも、その気にさえなれば十分可能だろう。次回の選挙で再選するためには、予算権限を持つ行政と一体になって動くことが何よりも大事。与党の綱領や政策などははっきり言ってどうでもよい。要するに、議員は与党に属してさえいれば何かと得なのである。

 この構造は国政でも変わらないらしい。単なる文言に過ぎない政治信条よりも、与党で居続けることの方が何よりも大事という議員が与党の大半を占めているように見える。党是であったはずの池田大作氏の平和主義に反してまでも、「ぬれ落ち葉」とか「下駄の歯の雪」と揶揄されながらも自民党にしがみつき続けている公明党がその典型例だろう。

 民主党が政権を取った際には自民党から民主に鞍替えする議員が続出した。自民党が政権を奪還してからは、反対に旧民主党から自民へと引っ越す議員がポロポロとさみだれのようにいまだに続いている。このような議員体質を見れば、菅氏有利と見たとたんに各派閥が一気に菅支持へと雪崩を打ったのも当然の現象だろう。

 菅氏が「安倍政権の継承」を明言したからには、自分たちの既得権益や縄張りは従来通りに保護される。改革を唱える候補が勝てば、かえって自分が損をする可能性も出て来るかもしれない。早く勝ち馬に乗れば、その分、後でおいしいポストにつけるはず。後は、先を争って新総理に対する忠誠心を表明するだけのこと。

 こんなことばかりを繰り返して重要な政策転換をいつまでも先送りしているうちに、日本人全員がユデガエルになってしまうのではないかと危惧する人は、筆者以外にもたくさんいると思うのだが・・・。

 本日、自民党総裁選が行われるが既に勝敗は決定済。もはや各候補の主張を載せた記事をいちいち読む気にもなれない。総理の辞任表明の際には「やっと終わった」といったんは喜んだのだが、総裁就任間違いないとされる後継者が「安倍政権の継承」をうたっているようでは、いままでの流れが大きくは変わらないことは確実だろう。

 特に言えることは、政権からの情報発信がますます隠ぺい化の度合いを深めるだろうということ。記者会見で「菅官房長官の天敵」と言われた東京新聞の望月記者がそのように指摘している。フジ産経と読売の御用新聞化はますます露骨になるだろう。突っ込み処が多かった安倍政権とは異なり、菅政権では表面的な整合性は整えられるものの、情報隠蔽度と陰湿度はさらに増すことになりそうである。モリカケ・サクラ問題についても、全容解明はますます困難となりそうだ。

「菅首相誕生で政権とメディアの関係はどうなる」

 次の記事も参考になる。人事面で官僚に圧力をかけることで自分の思い通りに操るという点については菅氏は非常に優秀なようだが、それが国民のためではなく、もっぱら自分への権力集中を強化することに使われているように見えるのが哀しい。昨日の報道にも「菅氏は内閣人事局を維持する意向」とあった。官僚による総理へのへつらいと忖度とが今まで以上に強まることになるだろう。
 また、ふるさと納税制度が富裕層への優遇策であることは明白であり、菅氏がとりわけ熱心であったIR誘致も米国巨大企業への日本市場の提供であることは明らかだ。今後の菅政権では「格差是正」は選挙対策向けのスローガンにとどまり、日本国内は日米の大企業の草刈り場と化して「国内の格差の拡大」が実質的に加速する可能性は高い。

「菅官房長官に意見して“左遷”された元総務官僚が実名告発 -「役人を押さえつけることがリーダーシップと思っている」-」

 総裁選での勝敗は既に決定済で各候補の比較記事も最近は冴えないが、少し前の記事で面白いと思ったものも紹介しておこう。筆者の古谷経衡氏はパニック障害の病歴がある元ネトウヨと自称しており、ネトウヨからの距離感に基づいて各候補を採点している。石破氏が最高点の5点で小泉進次郎が0点というのも面白い。ただし、ネトウヨが最も嫌っているのが石破氏であるという古谷氏の主張が正しいのかどうかについてはよく判らない(筆者は、ネトウヨの主張内容などはほとんど読む気がしないので・・)。

「ふるさと納税、カジノ推進、辺野古移設…本当は地方重視の「真逆」 菅義偉の評価は「星1.5」 -ポスト安倍を辛口採点-」

 菅氏自身の経歴については、約一年前にジャーナリストの戸坂弘毅氏が書いた次の記事があるのでそちらを参照されたい。これを読む限りでは、菅政権は来年秋の自民党総裁選までのつなぎで終わる可能性が高いように思う。

「次期首相に最も近い男・菅官房長官、哀しいまでの「中身のなさ」-腕力はあるが、志はない-」

 さて、メディアの提供する記事をまとめて紹介ばかりしているだけでは本ブログの存在価値は乏しいので、筆者が集計したデータも示しておこう。菅氏は「アベノミクスの継承」を主張しているが、アベノミクスの成果とはいったいなんだったのか。総理が交代する今の時点でいったん振り返ってみたい。

 各種世論調査によると、安倍内閣の強固な支持層は二十代から三十代にかけての若年層とのこと。支持の主な理由は、安倍内閣発足以来、求人倍率が上がって現在の四十代が経験したような「就職氷河期」から脱したこと、さらに若者に多い嫌韓層にアピールすべく韓国に対して強い態度を取り続けたことにあるようだ。

 後者の理由については、中韓叩きで読者を引き付ける以外にはもはや経営選択肢を持てないフジ産経グループと同様の手法だが、安倍内閣では韓国は叩いても、「中国という巨大な虎の尾」を踏むことについては慎重に避けている点が異なる。いずれにしても、経営不振の新聞社や米国史上最も愚かな大統領であるトランプ政権の真似をして、特定の国や民族への敵視をことさら強調することで支持率を稼ごうとする手法は、まともな政権が取るやり方とは到底思えない。

 さて、若者層が安倍内閣を支持する理由のひとつとされる「求人倍率の増加」について実際のデータを調べてみた。グラフを以下に示す。なお、これらのデータは以下のサイトから引用した。

https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0301.html
https://www.works-i.com/surveys/adoption/graduate.html

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 求人倍率の推移を見ると、大きなピークは、①バブル崩壊直前の1990年、②リーマンショック直前の2007~2008年、③コロナショック(?)直前の2019年、の三か所である(③については2020年の求人倍率が低下することは既に確定的。)「就職氷河期」と言われた2000年前後は、確かに、求人倍率が過去45年間の最低値となっている。

 大学新卒は正規職が大半であり、一般求人は正規と非正規の全ての職種形態が対象のはず。安倍内閣になってから大学新卒に対する求人倍率が改善したと思い込んでいる若年層が多いようだが、実態は未だに2007~2008年の求人倍率には届いていないのである。

 一般求人倍率については、最近は既にリーマンショック前のピークを越えて改善が続いてきたが、これは非正規職に対する求人が大幅に増えてきたことを反映しているものと推測される。安倍内閣の七年間で雇用率は改善したものの、賃金格差はむしろ拡大しているはずだ。

 さて、最近の求人倍率の改善理由の第一に挙げられるのは、何と言っても国内労働人口の急速な減少であろう。上の図に赤い点線で生産年齢人口の増減率を示しているが(元のデータが五年おきなのでそれを反映)、改めて過去の生産年齢人口の推移を下に示しておこう。

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 1995年をピークに、以降は急速な減少傾向が続いている。既にビーク時に比べて約16%も減少している。特に2010~2015年にかけて大きく落ち込んでいるが、これは1950年以前に生まれた「段階の世代」が60歳を超えたためである。ちょうどこの労働人口の急減期とリーマンショックからの回復期が、運よく安倍内閣の前半と重なったために、「アベノミクスで雇用が改善した」という誤解が生じたものと思われる。

 実際には、リーマンショック等の外部からの影響はあったものの、2000年以降は労働人口の減少に反比例して求人倍率は基本的に右肩上がりなのである。要するに、仮に安倍晋三氏以外の人物が総理であったとしても、仮に民主党政権が2013年以降も今までずっと続いていたとしても、求人倍率という指標に関しては過去の十年間と同様に上昇し続けていた可能性は極めて高い。

 日本の生産年齢人口は今後も急速な減少が続き、2050年あたりまでは年率1.0~1.5%で減っていくものと予測されている(2012年の政府予測による)。雇用面では今後も「人手不足」が続くとはいうものの、日本の今の経済規模を維持し続けるだけでも大変な課題となることは間違いないだろう。

 多くのマスコミが政府の広報機関と化しつつある現状の中では、政府が提供するプロパガンタやフェイクニュースを信じ込まないためには、自分自身で事実を確認するしかない。幸い、ネット上で多くの公的データが公開されるようになってきたので、自分でデータをまとめたうえで考えることも可能となった。皆様にも、是非、マスコミ報道のみで判断するのではなく、自分自身による検証を試みられることをお勧めしたい。

/P太拝

 

My fovorite songs (13) 森田童子

 森田童子を一言で評するならば「喪失感を唄う歌手」と言ってよいのだろう。知ったのはごく最近で約半年前。これもYoutube上をフラフラと探索している最中に偶然知った。本当にYoutubeさまさまである。
 経歴を見ると1970年代に活動していたとあるが、テレビなどのメディアに出ることはほとんど無く、東京近辺でのライブが主な活動の場だったらしい。当時は東京周辺にはいたものの、コンサートには無縁だった自分が知らなかったのも当然のことかもしれない。

「たとえば僕が死んだら」 

 彼女(男装しているが女性)の歌詞の特徴は、少ない言葉をもって聞き手の眼前に情景を描きだせる能力だと思う。下に示す三番の歌詞などがその典型例なのだろう。二番の「たとえば眠れぬ夜は 暗い海辺の窓から・・・・」も好きなところだ。

「たとえば雨に打たれて 
 杏の花が散っている
 故郷を捨てた僕が上着
 襟を立てて歩いてる」


「孤立無援の唄」 

この唄の三番の歌詞は以下。

「ネェ何か アルバイトないかなァ
 君はモノクロ テレビのプロレス見てる
 ふたりはいつも 負け役みたい
 でんぐりがえって 地獄がためだネ
 窓ガラス あけると
 無難にやれと 世の中が 顔をしかめてる」

 約50年近くも昔の唄だが、今の日本も当時とあまり変わっていないようである。


「さよなら ぼくのともだち」 

wikipedia「森田童子」によれば、「・・全共闘などの学園闘争が吹き荒れる時代に友人が逮捕されたことをきっかけに、1970年に高校を中退。・・20歳のとき友人の死をきっかけに歌い始めた。」とある。

 上の記事の内容が正しければ、彼女は筆者の一学年上にあたる。筆者は1972年春に大学に入学したが、四月の段階では学内はロックアウト中で入学式は中止、授業が始まったのは五月になってからだった。その後の一、二年間は学内で自死する学生がかなり多かったと記憶している。入学して大学の寮に入ったが、寮内には大学に居続ける目的を失ったように見える上級生がたくさんいた。彼らのうちのかなりの人たちが卒業することなく中退していった。後で人づてに知ったことだったが、中退後に自殺したという他寮の知人もいた。

 当時の学生運動に対する対応については学生個々それぞれであったが、同級生の中で東京出身者の対応はひときわ異なっていたように思う。彼らは、学生運動などは既に経験済というような感じでもはや関心を向けることも無く、ただ個々の興味のみに没頭しようとする傾向があった。

 都内の有名私立高校出身の友人のアパートに行くと、そのころ売り出し中であった小柳ルミ子のレコードを毎回たくさん聞かされて(特に嫌いというわけではなかったが)少々辟易した経験がある。彼に学生運動に対する姿勢について聞くと、もうたくさんだという表情をしながらも、「運動の原点は怒りだよ」と言っていたことを覚えている。都内では既に高校段階でかなりの経験というのか、怒りに始まる紆余曲折があり、最終的な挫折があったようである。

 森田童子の友人(恋人?)が、高校又は大学での闘争の結果としての敗北感の中で、生きる目的を失い自死を選んだことは想像に難くない。この唄が、いや彼女の唄の全てが、その友人の自死をきっかけとして生み出されたものであるのは確かなことだろう。


「ぼくたちの失敗」

「地下のジャズ喫茶
 変われないぼくたちがいた
 悪い夢のように
 時がなぜて行く」

 「そういえば、あの頃はよくジャズ喫茶に行ったな」と思い出しながらこのフレーズを聴いている。わざと照明を落とした暗いジャズ喫茶の中で、コルトレーンマイルス・デイビスを聴きながら、コーヒー一杯で何時間も粘りながら難解な哲学関係の文庫本を読んでいた。読んでいた内容は結局は何も頭に入らなかったが、当時はそういう姿がカッコいいものと思い込んでいたのである。

 この曲は、森田童子本人ではなくて、死んだ友人の視点から唄われているように思う。「だめになったぼくを見て きみもびっくりしただろう」という詞からそう類推するのである。Youtube森田童子の各曲へのリスナーからのコメントを見ると、彼女の唄を聴くことで救われたという内容がかなりある。「だめになったのは自分だけではない」と感じることも時には必要なのだろう。その意味で、彼女は既に亡くなったが、彼女の残した唄が多くの人を今も癒し、救い続けているのだろう。

 今年の春には「生きものがかり」の曲を何曲か紹介した。彼らは常に、未来への希望を明るく力強く唄い続けている。その対極に位置するであろう森田童子は、過去の追憶と後悔?だけをずっと唄い続けて既に死んでしまったのだが、我々には両方の唄が必要なように思うのである。


「男のくせに泣いてくれた」

 今までのネクラな内容の曲紹介とは一転、華やかな美男美女が織りなすテレビドラマ「高校教師」の中で使われた曲である。若いころの真田広之赤井英和、そして桜井幸子が登場しているこのドラマの脚本を書いたのは野島伸司だが、彼は森田童子が既に発表していた唄の内容に合わせてこのドラマのストーリーを描いたのだろう。森田童子がこのドラマの放映に際して新しく曲を作ったことは一切ないのである。それはともかくとして、このドラマのヒットによって、改めて森田童子の曲が脚光を浴びたのは確かなことだ。

 筆者は、昔からテレビはドキュメンタリーとスポーツ番組以外はほとんど見ないので、1993年放映のこのドラマは当然見た記憶もなく、このドラマの存在は森田童子がらみで最近初めて知った。知ってから改めて思うのは「桜井幸子さんはすごい美人」ということ。十年ほど前に芸能界を引退されたのが惜しまれる。若い真田広之さんも実にカッコいい。これら美男美女による話題満載のドラマの全てを通して見たい方には、youtube上にて「高校教師」で検索されることをお勧めしたい。

 あらためて思うのは、1970年代の学生運動の挫折をきっかけとして作られた唄が、その約20年後には、一転して教師と生徒間の恋愛の結果としての喪失感を表現する唄として受容されるようになったということ。愛する対象を失った喪失感を表現する唄は、それが作られたきっかけが何であれ、我々の心は区別することなく受け入れているのだろう。

「ラスト・ワルツ」 

「この暗き部屋の窓から
 街の灯はまばゆく 自由が見える
 すべてが遠きこの時よ
 このまま若い日が終わるのなら
 せめて最後にラスト・ワルツ」

この二番の歌詞を聴いていると、ちょうど香港の若者たちが今置かれている状況を思い浮かべてしまうのである。

 さて、筆者には、気に入った唄を何回か聞いているうちに、ある時点から無意識のうちにその歌が突然脳裏に流れ始めて止まらなくなってしまうという習性がある。この二か月ほどの間、昼間の仕事中にも、森田童子の様々な曲の歌詞が不意に頭の中に流れ始めて止まらなくなってしまうという経験が何回もあった。このような経験を繰り返しているいるうちに思ったことは以下のようなことだ。

森田童子は、既に二年前の2018年4月に亡くなった。しかし、彼女が言いたかったことは、彼女の唄の内容を若干なりとも理解した筆者の脳裏の中に刻みこまれた。その唄を知った時点、今年の早春の時点で、彼女の意識の一部が自分の意識の中に部分的にせよ移植されたような気がする。

・改めて思うのは言葉の持つ強さである。筆者の脳裏に森田童子の歌詞が繰り返し浮かぶのは、彼女の作った歌詞と曲が普遍的な強さと万人に受け入れられる平易さを持っているからだろう。

・唄の持つ力を見くびってはならない。森田童子の唄を聴いたことで自死を思いとどまった人間が実際に何人もいるのである。こんなことは、我々の身の回りとかテレビの中で毎日のように見かける「偉そうにふんぞり返っている人々」には逆立ちしてもできることではない。

・例え、一国の総理大臣であろうと、国を代表する巨大企業のトップであろうと、「自分の言葉を持たない人間は、その地位を失った瞬間に忘れ去られる」。その後は、彼または彼女が死んだ時点で新聞紙上に一片の訃報が流れるだけである。しかし詩人は、その残した詩が理解される限りは忘れられることはない。言い換えれば、「詩人の魂は、その理解者がいる限りは永遠に存続しうる」。

・言葉を後世に残すことで、精神面で現在も生き続けている詩人、作家、哲学者、宗教家等は無数に存在する。日本では、千年以上前で言えば、万葉集大伴家持源氏物語紫式部など。近い例では、宮沢賢治寺山修司阿久悠、等々(筆者の好きな名前だけを挙げた)。外国ではホメロス司馬遷ソクラテス仏陀、キリストなどは、二千年以上前に彼らが抱いた精神が、その理解者が今も存在することで現在も生き続けていると言ってもよいのだろう。

 このように考えているうちに、「人間としての最高の職業は自分の言葉を後世に残せる職業、例えば詩人」との結論に達してしまった。技術者なんぞになるよりも作詞家になればよかった。筆者は作曲方面については全く無能力だが、作詞方面では少しは何とかなったかもしれない。

 しかし、年齢的にはもう遅い。やり直しが効く二十代くらいのうちにこの真理を発見していればよかったのだが・・・、なんとも残念である。今はただ、先人が作った素晴らしい歌詞や曲、文学作品や著作を楽しむことくらいしか自分にはできそうも無い。

/P太拝

日本政府はコロナウィルスの検査数をなぜ増やさないのか(8)

 本日未明のニュースによると鳥取県内で21人目の感染者が米子市内で確認されたとのこと。

「米子市で新たに1人感染 30代女性会社員 鳥取県21人目」

 この感染例では、発症してから六日後にようやくPCR検査を受けて感染が確認されている。この間に他の人に感染を拡大させてしまった可能性も大いにありうる。検査能力を飛躍的に増やして感染疑いのある人を迅速に検査するという検査体制の拡充こそが、感染拡大防止にとって必要不可欠であることがこの一例を見てもよく判る。

 一方、既に陽性となった人の濃厚接触者である県内20例目の場合には、三回目の検査でようやく陽性が確認されている。
「新型コロナ鳥取県20例目の感染者 3回目の検査で陽性判明」

 感染者がいったいどのような段階で感染拡大させているのかが気になるところだが、忽那賢志医師による次の記事で詳しく知ることが出来る。感染初期の場合には、ウィルスの数が少ないために誤診が生ずることもかなりあるようだ。

「新型コロナ マスク着用による感染予防の最新エビデンス」

 記事の一部を抜粋すると、「・・・・新型コロナの感染伝播の総量を100とすると、この発症前の無症状者からの伝播が45%、そして無症状のまま経過する無症候性感染者からの伝播が5%ということで、合計50%は無症状者からの伝播であることが分かっています。・・・」

 要するに、「自分は無症状だから人にうつす心配はない」と思い込んでマスクも付けずに人に接している人が一番危ないということ。最近の感染増加は主として無症状者によるものとの説が一般的となっている。

 この事実を見れば、現在の「症状を医師が確認してからPCR検査を実施」との政府方針では感染拡大を止められないことは既に明らかなのに、日本政府は未だに検査拡大には踏み切ろうとしないのである。それどころか、感染が収まっているわけでもないのに「GoToトラブ(?)ル」を前倒しして、わざわざ税金を使って無症状感染者を国内にばらまいて感染拡大を促進しているのである。「愚か」と言う以外には形容する言葉が見つからない。

 さて、先回の記事から約一週間、この間に日本の陽性率はどう変化したのだろうか。「Our world in data」から再び本日時点でのグラフを抜き出して下に示す。8/3までの七日間平均値は5.8%まで上昇している。


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 相変わらず陽性率は急上昇中であり、市中感染がさらに広がっていることを示している。なお、先回のグラフから最近の数値が下がっているのは、東京都等でPCR検査に加えて抗原検査の結果も含めるようになったためとのこと。四月前後の陽性率が特に大きく下がっている原因はよく判らない。いずれにしても厚労省の発表データを元にオックスフォード大学の研究者が作成したグラフなので、これが日本政府の公式のデータのはず。厚労省のデータ集計方法には一貫性が無いように見える。


「中国のPCR検査能力、1日484万件 5カ月で4倍に増強」

 七月末現在で中国の検査能力は一日当たり484万件とのこと。一か月前の六月末からは検査能力が114万件も増えている。一方、現在の日本の検査能力は最大で一日当たりわずかに3.5万件。さらに検査実績は、一日あたり一万件程度に過ぎない。

 さて、あまりにも増えない検査数の実態に業を煮やして、世田谷区では区自ら公費での検査補助の実施へと踏み切るとのこと。世田谷区の取り組みには大いに期待したい。他の自治体でも後に続いてもらいたいものである。

「保坂展人・世田谷区長に聞く PCR検査を独自拡大する狙い」

 日本医師会もようやく重い腰を上げたようで、中川新会長自ら緊急提言を発表した。当初は検査数拡大に否定的だった医師会も、やっと変わりつつあるようだ。「安倍の大親友」と言われた前会長が、先日の会長選で敗れた効果が早くも出てきたのかもしれない。
「医師判断でコロナ検査を 委託契約省き促進―日本医師会が提言」

 さて、日本国内のPCR検査が一向に増えない理由を最近読んだ記事を参考にざっと書き出してみると、以下のようになるだろう。

① 医師の判断が無い場合には公費による検査を認めない。
② 医師を経由しないで自発的に検査したいのであれば、その費用は自己負担(約2~3万円/件)。会社の費用負担で従業員に検査を受けさせているケースもあるが限定的。
③ あくまで「保健所→衛生研」の流れでの検査が主であり、民間機関による検査は徐々にしか増えていない。
④ 唾液によるPCR検査や、短時間化した改良PCR検査も既に開発済だが、信頼性に疑問があるとして多くの医師が使いたがらない傾向がある。
⑤ 誤判定を恐れる医師が多い。
⑥ 陽性と判定した場合の入院・収容先を心配して検査数を減らそうとする傾向がある。

⑦ 採取した検体を検査機器のある衛生研等に送る段階で、人手不足等によって輸送に時間がかかっている。

 ①~③については日本以外の少なくとも先進国では、医師の判断なしで希望者は誰でも検査を受けることが出来、かつ検査費用は全額公費負担が一般的らしい。検査費用については、検査総数を増やして民間企業に競争させればすぐに数分の一以下になるだろう。

 仮に一件につき一万円と仮定しても、日本の全国民を検査するための費用は1.25兆円。先に全世帯に10万円ずつ配った配布金の費用は、現在の世帯数から計算すれば約5.3兆円のはず。この先、国がさらに各世帯に何十万円もバラまいたとしても、今の不安感が解消されるはずもない。先回のカネがあれば全国民に対して四回は検査できたはずだ。「自分も含めて誰が感染しているか判らない」という不安感が外出を控えさせ、経済を落ち込ませているのである。

 感染防止と経済の両立は検査数を増やして各個人の不安感を取り除く以外には実現する手段がないことは明白なのに、日本政府は一体何をしているのか?この騒ぎに便乗して国民からの税金を吸い取ることでボロ儲けしようとしている電通などの大企業に、火事場泥棒の場を提供しているだけではないのか?

 口先で「注意しましょう」と言うばかりで具体的に実行可能な方法を一向に示そうとしないのは、「頑張れば、竹槍でB29を落とすこともできるはず」と言っているようなものだ。窮地に陥った際、具体策を何ら示さずに精神面ばかりを強調しようとするのは、日本人に伝統の宿痾(しゅくあ)なのかもしれない。

 ④~⑦については、医師の不安感を取り除くべく、国が資金面も含めて強力に支援するべきである。誤判定の確率が三割あるとしても、感染しているかどうかが全くわからない人間が街中を歩き回っている現状よりははるかにマシである。医療関係者のように絶対に陰性であることが要求される職種については、検査を数回繰り返し全て陽性になった人だけがあたればよい。

 また、検査希望者に対しては、誤判定が原因で生じた経済的被害については一切保証しないことを検査前にサインさせるべきである。訴訟狙いの悪質な希望者を排除するとと共に、余計な訴訟リスクも事前に取り除いておくべきだ。

 検査結果が絶対正しいとは言えないことを検査希望者に周知徹底しておけば、陰性となった者も検査後に度が外れた振る舞いはしないだろう。もちろん、陰性と判定した直後に感染症状が現れて陽性判定に転じた誤判定者の治療費用についても、一般感染者と同様に公費負担とすべきである。

 軽度・無症状の感染者が増えすぎて医療機関や借り上げ施設に収容しきれなくなった場合には、自宅隔離とするのが欧米では一般的なようなので、それにならえばよい。コロナ禍で解雇された非正規社員が現状増えつつあるのが、感染者のサポート役や検査補助のための臨時職員として国が率先して雇うべきだろう。

 最後に次の記事を紹介しておこう。ちょうど一月前の記事だが、今の状況は当時とあまり変わっていない。

「【図解・社会】新型コロナに関する各国の検査件数(2020年7月)」

この記事の最後にある次の部分、何度読んでも腹が立つ。
「・・・厚労省の担当者は今後の検査体制について、「能力は民間で伸びているが、現在の3万件からどの程度増えるかの見通しは立たず、目標は設定していない」としている。」

 厚労省は検査体制の拡充を民間に丸投げして、今後どうするのかについての計画すら立てていないのである。検査数が増えず、あちらこちらで目詰まりしていてもほったらかしたまま。厚労省は責任を持つべき当事者ではないのか、いつまで評論家でいるつもりなのか?

 普段は厚生・医療行政の細かい点についてやたらと口うるさく、自分たちの権限拡張に血眼になるくせに、今回のような大ごとになると一転して役所の中に閉じこもり、ただ自分たちの既得権益が侵害されないように既存の体制を死守しようとしているだけだ。自ら進んで国民の生命を守ろうとすることもなく、自分たちの縄張りと将来の天下り先を守ることにしか関心がない。小役人根性丸出しである。

 怠惰な厚労省のケツをひっぱたくこともなく放置し続ける安倍内閣の無能さ加減については、今さら言うまでもない。アベノマスクの実用に耐えない小さなサイズと調達納期に関する無知ぶりからも、このマスク配布事業が総理とその取り巻きの補佐官だけで決められたことがよく判る。関係官庁も巻き込んで進めていたのなら、もう少しはましな結果となり、こんな無様なマスクが多額の税金を無駄に使って全世帯に配られることも無かっただろう。総理の取り巻きの出世官僚の失敗を願う厚労省の幹部連中は、アベノマスクのみじめな評判を見て「それ見たことか」と陰でせせら笑っていたのかもしれない。

 現在急がれるのは、臨時国会を至急招集して、必要な法律を整備し予算をつけて検査体制を抜本的に強化することしかない。このままずるずると無為に時間の浪費を続けていては、国内でのさらなる感染の蔓延と日本経済の再度の落ち込みは必至である。仮に今後奇跡的に日本だけが感染拡大防止に成功したとしても、世界各国の現状を見れば、来夏の東京五輪開催などはもはやあり得ないだろう。安倍総理が予定していた晴れ舞台は、既に風前の灯と化している。

 もはや安倍総理臨時国会を召集する気がないのであれば、内閣総辞職して次のリーダーに政権をゆだねることこそが、彼に最後に残された国民に対する責任の取り方というものであろう。

/P太拝

 

 

 

日本政府はコロナウィルスの検査数をなぜ増やさないのか(7)

 昨日一日のうちに、鳥取県内のコロナ感染者数が一気に増えて10人になったとのこと。県は「県版新型コロナ警報」を県東部地区に発令したそうです。どういう内容かと思って下の県公式サイトをのぞいてみたが、我々一般人に関しては、「会食や飲み会の場で、感染予防に最大限の注意を払っていただきますよう強くお願いします」というだけのこと。従来の生活にさらに強い制限がかかるということではないようで拍子抜けしてしまった。

「新型コロナウィルス感染症特設サイト」

 「東京アラート」は一回出ただけでなぜかお蔵入りになってしまったが、少なくとも、県の「コロナ警報」が東京のような薄っぺらなカタカナ外来語を使っていない点については好感は持てると感じました。


 さて、昨日の新規感染者数は1200名越えで過去最高を更新、岩手県でもついに初感染者を記録とのこと。岩手県民も今までの緊張感が抜けて、ある面、ホッとしているのかもしれない。この日本でのコロナ感染も重大な岐路にさしかかりつつあるようなので、久しぶりに検査数の問題を再度取り上げてみたいと思います。まずは最新データの紹介から。

 次のサイトは英国オックスフォード大学の研究者が運営しているサイト。各国の最新データが日々更新されていて、各国の現状が把握できます。このサイトから世界の主要な国38カ国における昨日7/29時点での直近七日間の陽性率と検査数(千人当たり)の平均値を拾いました。対象国としては人口が多い国を、また人口が少なくても、感染が急速に増加、またはうまく抑制できた国も加えました。

 このサイトには各国ごとに色が塗り分けられた地図がありますが、地図上の各国の上に(マウス等の)ポインターを載せると国別の数字が表示されます。


「Our world in data」

 また、各国の昨日までのそれぞれの累積検査数、累積感染者数、累積死者数も調べることにして、以下のNHKサイトから国別の数字を、さらに各国の2019年時点での人口を以下のサイトから抽出して各指標の千人当たりの数字を計算しました。

「NHK 新型コロナウィルス特設サイト」

「GLOBAL NOTE 世界の人口 国別ランキング・推移(国連)」

 以上の各国の指標を表にしたものを下に示します。なお、各国の現時点での感染拡大の傾向を示す指標として「陽性率(直近七日間の平均値)」に注目しました。

 また、各国の感染状況の把握の度合いとして「検査数(直近七日間の平均値)」と「 累積検査数」にも注目しました。

 表中では、各国の現状と日本の現状を比較するために、日本よりも各指標が悪化、または劣っている国の指標を赤字で示しました。さらに、「陽性率」と「検査数」の両方ともに日本よりも劣っている国の国名を赤太字で示しました。
 なお、「検査」方法としては、このサイトではPCR検査のみを対象としてカウントし抗体検査等は現時点では除外しているとのことです。

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 以下、この表からわかること。

①「陽性率」では、メキシコとブラジルが60%台を記録。これは感染拡大のスビードに検査能力が全く追い付いていないことを示しているのだろう。いわゆる医療崩壊の状態なのではないか。コスタリカは、当初は感染抑制に成功した国として報道され当ブログでも以前紹介したが、六月以降に急速に感染拡大したとのこと。今のところ、同国に関する新しい記事が見つからないのでその原因はまだよく判らない。欧州全域、アジアの一部、オセアニアでの陽性率は低い。

 症状が出ている人から検査を始めてその周囲に検査対象数を増やしていけば陽性率は低くなるはずだが、最近の日本では検査数を増やすと共に陽性率も上がってきている(後述のグラフ)のだから、感染の拡大傾向は明白だ。こんなことも判らないのはK都知事くらいしかいないだろう。

 

②「検査数」が日本よりも少ないのはわずかに七カ国のみ。感染をほぼ完全に抑え込んでいる台湾は検査の必要性が少ないためと思われるので除外すると、残った六カ国にはいわゆる先進国は一つもない。これらの国は医療インフラが不十分なために検査数を増やせないのだろうが、はるかに医療先進国であるはずの日本が、バングラデシュ、メキシコ、ペルー、パキスタンと同程度の検査しか実施していないのはどう見ても異常。

 比較的「中進国」であるはずのタイが検査数が少ないのは、同国が現在は軍事独裁政権下にあることと、観光業が主要産業であることが関係しているのではないか。政権が意図的に検査数を下げている可能性がある。

 

③「累計検査数」が一番多いのはUAEであり、既に国民(外国人労働者を含む)の約五割に検査を実施済。ロシア、イスラエル、米国、ポルトガル、オーストラリアが一~二割台で続く。これらの国では、個人への「PCRパスポート」の発行も近いうちに視野に入ってくるだろう。

 「累計検査数」が日本よりも劣るのは、わずかに五カ国。前述の理由で台湾を除けば、ナイジェリア、コンゴ(データが無いが推定で入れた)、タイ、インドネシアの四カ国のみ。ここでも「先進国」日本の遅れがひときわ目立つ。

 

④「累積感染者数」については、各国の検査対象の選定方法がかなり異なるので単純な比較はできない。「累積死者数」についても各国の「コロナ死」の判定基準はバラバラなようだ。アフリカ諸国や南アジア、中南米などでは、コロナによる死と特定されないままに処置されている病死者がかなり多いものと思われる。

 判定基準がかなり共通していると推定される北米、欧州、東アジア、オセアニアで見ると、やはり欧州の死亡率の高さが目立つ。逆に東アジアの死亡率の低さも際立っている。週刊誌やニュースサイトには「日本だけがダントツで死亡率が低い」と書き立ててる記事が多いが、そんなことはない。東アジアに共通した現象である。これについては今後の記事で触れてみたい。

 

⑤  現在の日本の陽性率の高さ、未検査者が圧倒的に多数であること等から見て、今後のさらなる感染拡大は確実だろう。これらの指標が日本とよく似ているパキスタン、インド、インドネシア、フィリピン等の今後の推移についても要注目である。

 そもそも、自分自身も含めて誰が感染しているのか判らない現状では、外出を控えて極力人との接触を避けようとするのは当然の行動である。結果として消費は大きく落ち込み、いつ回復するのかの見通しすら立たない。

 広範囲な検査を実施して感染者と非感染者を明確に分け、感染者を治療して回復を待つ一方で、当面は非感染者だけで経済を回していくしかないことは子供でも判る。それなのに、厚労省は検査を増やせない理由を並べ立てるだけで一向に動こうとしない。今こそ政治家がリーダーシップを発揮すべきである時なのに、総理は公邸にオコモリしたままで国民に呼びかけることすら避けている。「不思議の国、日本」というほかはない。

 

 ついでに、日本の陽性率の推移のグラフを下の図に示しておこう。出所は上と同じく「Our world in data」から。

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 7/22から「GO TO トラベル」が前倒しで始まった。その成果なのか、開始してから一週間たった昨日の7/29には新規感染者が急増している。この前倒し日程が決まったのは7/16の会議でのことだったらしい。観光業界を自分の支持団体としている二階幹事長からの強引な圧力で前倒しが決まったとの説が有力である。

 上のグラフでこの7/16前後の陽性率の推移を見ると単調増加中であり、感染が既に拡大傾向にあることは明白であった。専門家がデータに基づいて危険性を指摘しているのに、政治家と官僚は自分の椅子確保と今後の出世だけが目的で、データを無視して無茶な、余計な政策をゴリ押しで決めている。国民から集めた税金を無駄に使っては事態を一層悪くする。毎度おなじみの光景が毎日のように繰り返されている。日本の政治の内実を知れば知るほどに、我がタメ息は増えるばかりだ。

 さて、現在の最大の問題は、日本のPCR検査がいつまでも途上国並みにとどまっていてなぜ増えないのかということだ。約一か月前の報道によれば、中国国内のPCR検査能力が一日当たり370万件になったとのこと。一方、上の表の値から計算すると、現在の日本の検査実績は一日当たり1万1千件にすぎない。

 一か月前の中国の検査能力は、千人あたりに換算すれば日本の最新実績の約29倍に相当する。中国経済が世界に先駆けていち早く回復しつつあるのは、検査数の圧倒的な多さを見れば当然の結果だろう。なんでここまで差がついたのか?

 検査対象を全国民に拡大さえすれば、経済と感染防止の両立などは容易な話なのに、なぜ日本政府はいつまでもやろうとしないのか。皆さんは何が原因だと思いますか?

 次回の記事ではこの点に焦点を当ててみたいと思っています。

/P太拝

名刺を渡そうとしない鳥取市の職員

 当「開かれた市政をつくる市民の会」が先月上旬に深澤市長宛てに提出した「旧本庁舎の活用方法」に関する公開質問状ですが、先月末に回答がありました。先日この回答に対する当会としての見解を会の公式サイトに掲載しました。詳細については同サイトの記事をご覧ください。大変遅くなってしまい申し訳ありません。

 なお、この機会に、水害時の鳥取市の避難体制に関する疑問点を再度の質問状として提出しました。八月初め頃には担当の危機管理課からの回答が帰ってくる予定です。どの程度くわしい内容の回答が返ってくるのかはまだわかりませんが、今後の水害発生時の避難行動の参考としてください。

 さて、先月から何度か新市庁舎を訪れて数名の市職員と面談する機会がありました。以前から疑問に思っているのですが、面談時に市の職員から名刺をもらうことはほとんどないのです。今回も面談の最初に職員の皆さんは(上の)姓を口頭で告げただけ。肩書すら名乗らない人もいました。

 先月の面会後、家に帰ってから念のために市の職員名簿を調べようとしたが、市の公式サイト上には職員の氏名は一切公開されていない。仕方がないので人事異動の記事を調べたが、市のサイトには市職員の人事異動のデータすらも載っていない。要するに、鳥取市は職員の氏名が市民に知られることのないように異常なまでの努力を払っているのだということだけはよく判った。

 この鳥取市の異常なまでの隠蔽体質と、知事から各部署の非正規職員に至るまで(多分)全ての職員名が部署ごとに公開されている県の公式サイトとを比べると、その間の落差には天と地ほどの違いがある。

鳥取県職員名簿 

 以前から市の公式サイトには市職員名はほとんど掲載されていず、各部署の職位ごとの電話番号くらいしか載っていなかった。昨年11月に新市庁舎に引っ越して市公式サイトを更新してからは、市の情報隠蔽度はさらに高まり、現在では各部署の電話番号としては部署の代表電話番号しか載っていない。なんでここまで隠すのか?

 ふと思い立って、手元に保管している名刺を調べてみた。筆者は年に数回程度は県庁を訪問する機会があるが、県職員の対応は鳥取市職員とは全く違う。初顔合わせの職員との面会の場合、必ず相手が自分の名刺を差し出してくれる。筆者は県の政策に対しては批判的になることが多いが、他の人への対応を見ても、県職員の対応が相手が県政に対して持っている意見次第で変わるようなことはないように見える。

 手元に残っている名刺の枚数を数えてみたら、その割合は、県職員:市職員=8:1程度の比率であった。市役所を訪れる回数は県庁と大体同じくらいだったと思うので、市職員からもらう名刺の枚数は県職員に比べて圧倒的に少ない。

 会社員時代からの習慣で、筆者は面会直後には必ず名刺に当日の年月日を記入することにしている。日付を確認したら、市役所の中で市職員から名刺をもらったのは2016年が最後だった。この頃に「市民には名刺を配るな」という内容の市長通達が出たのかもしれない。2017年以降、市役所内で面会した市職員からは、一枚の名刺すらももらえていないのである (市役所外で市職員に会うことも稀にはあるので、その場合は除外)。

 さて、面会した相手に対して名刺を渡すこと、即ち、自分の氏名、所属先、連絡先を明らかにすることの意味は一体何なのかを少し考えてみた。自分の氏名と担当分野に関する情報を公開することは、「この件については、自分はなにがしかの範囲で責任を持つ」という意思を表明していることに他ならない。だからこそ、日本のみならず世界中において、ビジネスに関わる人々は、名刺の手渡しやメールアドレスの交換で自分の身元と所属先を明らかにすることを以て、商談・折衝・交渉を開始するのが慣例となっているのである。
 そのように考えると、鳥取市職員が筆者に名刺を渡そうとしないという事実が意味することは明白である。自分はこの件に関する責任を取りたくないという意思の表明に他ならない。自分に関する詳細な情報を相手に与えると、後で自分自身を指名して連絡がくるので迷惑だと思っているようにさえ見える。

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 「名刺を渡さない」=「自分は責任を取りたくない、かつ、二度と会いたくない。」

→ その結果、市民は誰が本当の責任者なのかわからない。

       市役所の各部門を右往左往、要するに「たらい回し」が頻発。

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 鳥取市の歳入の約三分の一は鳥取市民から取り立てている税金や手数料、残りの三分の二は国や県からの地方交付税や支出金・補助金から校正されている。要するに、市職員の給料の約三分の一は鳥取市民が支払っている税金なのである。その対価として、市職員は市民に公共サービスを十分に提供する義務がある。

 民間企業に例えてみれば、お客様である市民にサービスを提供する対価として市職員は給料を受け取っていることになる。お客に対してサービス提供を怠るような従業員は会社の存続を危うくする存在でしかないので、経営者が彼の給料を減額、怠慢がはなはだしい場合には解雇するのは当然のことだろう。しかし、鳥取市職員の場合には、市民への公共サービス提供を怠っている職員であっても、何ら恥じることも無く堂々と給料を受け取っているように見える。

 筆者は公務員、特に行政職は住民全体を対象としたサービス業の一種と捉えているのだが、こと鳥取市に限ってはこの見方は当てはまらない。彼らが「自分たちはこの街の支配者だ」と勘違いしている可能性は高いのではないか。約四十年前、関東地方から鳥取市にUターンした際の住民票の転入作業が、あまりにも役人の都合本位で市民に不便を強いていることに怒りを覚えた時から、筆者はこのように感じている。話し出すと長くなるので、この話はまた別の機会にしたい。

 市職員が名刺も渡さず公式サイト上に自分たちの氏名さえも公開しない理由としてもう一つ考えられるのは、彼らが鳥取市の一般市民からの批判を恐れているのではないかということだ。

 しかし、市職員に対する鳥取市民の怒りはもっともなことではある。何しろ、「市庁舎新築は不要」との市民の明白な意志が出た住民投票結果をひっくり返して、新市庁舎建設を強引に進めた深澤現市長の当選に大いに貢献したのが、現在の市職員の大半なのである。2014年4月の三氏が三つどもえで争った市長選挙では、市職員は一丸となって深澤陣営の集票に奮闘、市職員からのはえ抜きである自分たちの仲間を市長に押し上げることに大いに貢献したことは市民周知の事実である。当選後の深澤市長は、市経済の衰退が進む中で、職員給与の引き上げという形で職員に当選御礼を返している。

 おかげで我が鳥取市は、「住民投票結果を無視してひっくり返した、戦後日本政治史における初の自治体」の汚名をこうむることとなった。さらに約百億円と巨額の新市庁舎建設費の負担も一因となり、近年の市民に対する公共サービスの質は低下の一途をたどっている。市民の市職員に対する不満は、このような過去十年間に及ぶ市職員の行動の積み重ねに対する不信感に由来している。筆者の知人には、「鳥取市にはもう税金を支払いたくない」との理由から、他の自治体に毎年多額の「ふるさと納税」をしている例も存在する。

 要するに、元々は自分たちが蒔いたタネなのである。市民からの批判を恐れるあまりに被害妄想となり、せっかく親からもらった自分の名前を正々堂々と名乗ることも出来ずに、新市庁舎の中に閉じこもっているだけなのではないか。

 さて、市民の眼を一番恐れている市職員とは、深澤市長自身だろう。以前、当会サイトの記事「深澤市政二期目の公約の実施状況」にも書いたが、市が主催し一般市民との貴重な対話の場所である「地域づくり懇談会」の開催回数は年々減少。昨年度はたったの七回に過ぎなかった。今年はコロナ騒動を理由に未だにゼロのはずだ。市長は「今年は出なくて済む」と胸をなでおろしていることだろう。

 批判者を排除した安全な場所でしかモノが言えない臆病な人物が市のトップでは、鳥取市の衰退を止められるはずもない。市民からの批判を恐れず、自ら市民の中に飛び込んで行って、市の将来について市民と熱く議論できるリーダーこそが、今、求められているのである。

/P太拝

「目の前の小石」を拾っている人ばかり

 先週、小池都知事が再選された。366万票を獲得しての圧勝だった。この人については、以前から、顔を見るたびに「うさんくさい」「薄っぺら」という言葉が頭に浮かんでしまう。三年前の「希望の党」騒動も、いったい彼女がどういう政治を実現したいのかよくわからないままに終わってしまった。

 あの時は、批判する側も「排除の論理はよくない」という言葉尻だけをとらえての批判に終始していた。自分の政治主張に合わない候補者を自党から排除するのは新政党の提案者としては当然の行為だと思うのだが・・・。ただ彼女の場合には、その政治的主張の具体的な中身がよくわからないことが最大の問題であったようだ。明確な線引きを示さないものだから、野党の面々は、新政党に参加してよいのやら悪いのやら判断停止の状態にあったのだと思う。結局は、互いにイメージだけの言葉をメディアを介して投げつけ合うだけで、後に意義あるものを何一つ生まない不毛な騒動となってしまった。

 現在の日本の政治の混迷の原因は、このように具体的な政策レベルでの政治方針を一向に示そうとしない政治家と、メディアに流れるイメージ量の大小だけで投票先を決める有権者(それでも、投票に行かない有権者よりはまだマシだが・・)にあると思う。

 そもそも大都市の有権者はイメージ戦略に弱い。大阪ではかって漫才師の横山ノックが知事となり、東京ではテレビでの露出度が多いタレントや、タレント的な政治家が最近の知事の多くを占めている。

 二十代の頃、東京都内でアパートを探したことがあった。不動産屋の車に乗って物件を案内してもらっていたら、彼は「この町内は意外と有名なタレントさんが何人も住んでますよ」と自慢していた。「そんなことと街の価値の間に何の関係があるんだ」と思いながらも黙って聞いていた。「テレビに出ている人は、どういう人物であれ、出ること自体に相当の価値がある」と思い込む傾向は全国的な現象なのだろうが、東京ではその種の人の割合が全国平均よりもかなり高いようだ。

 そんなことを考えていたら、昨日、面白い記事を読んだ。石原慎太郎元知事の腹心で副知事を務めた浜渦武生氏へのインタビューである。同氏のwikipediaを見ると、石原氏と同様にかなり強権的かつ暴力的な人物のようであるが、この記事の末尾に出て来る表現が何とも面白いので以下に紹介しておこう。

「小池知事の父の夢支えた浜渦元副知事「百合ちゃん幸せか?」」


 共感したのは、この記事の末尾にある「彼女には政治家としてやりたいことなどなく、ただ目の前の小石を拾い上げているだけに見えます」という部分である。

 「目の前の小石を拾い上げているだけ」というのは、考えてみれば、その場しのぎのパフォーマンス合戦に終始している日本の大半の政治家にピッタリな表現である。小池氏だけではなく、安倍総理を筆頭とする内閣の閣僚の面々、与党と野党の多くの議員がやっていることは、目前に差し迫った解決しなければならない問題という名の小石を優先してに拾いあげることで、課題に真摯に取り組んでいるかのように国民に対して見せかけるというもの。内閣と与党の場合には、拾った小石をいったん官僚に渡し、官僚は国民がその問題を忘れた頃に別の場所に小石を再びそっと落として歩くだけのことのようである。

 小石は拾って見せる一方で、大きな石は最初から避けて通ろうとする。この大きな石とは、先進国中最悪の政府負債、停滞し他国に置いてきぼりにされるばかりの生産性、それらの結果としての日本経済の没落、一向に改善しない出生率等々である。国の今後を左右する課題は数えきれないほどあるのに、一向に正面から取り組もうとはしていない。熱心に小石を拾って見せることで自分のイメージを良くし、次の選挙に備えることが最優先なのである。

 大きな石に正面からぶつかって自ら動かそうとしている政治家が、現在の日本に何人いるだろうか。目前の大きな石の一つであるコロナ対策にしても、国民の自主規制で今までは何とか感染の広がりを抑えて来てはいるものの、政府対策の実行の遅さは先進国中では最低ランクであることが既に露呈してしまっている。

 「小石を拾うだけの人」は、当然だが、地方政界では大半がそうである。地方自治では大きな石に出会う機会はめったに無いのでそれでも良いのだが、問題は「小石すらも拾わずに税金で飯食っているだけの人」の存在である。例えば、鳥取市議会の、特に与党の多くの議員は、「就職先として市会議員を選んだ」だけである可能性が高いように見える。

 議会内でも役所内でも、実際には拾ってもいないのに「小石を拾っているふりをするだけの人」もかなり多い。市職員の中では、本当に小石でもよいので真面目に実際に拾っている人は、それだけでもかなり貴重な存在なのかもしれない。

 この「小石を拾う」という表現、色々な場面で活用できそうである。

/P太拝

香港は死んだ

 今回も中国ネタです。これで三回連続。自分は、昔から人権侵害や人の自由を奪う行為を見ると黙ってはおれない性格なので、最近はどうしても香港報道に注目してしまう。市民の発言の自由を奪うような政府は、右だろうと左だろうと「さっさとクタバレ!」と言いたい。コロナや豪雨水害も気になるが、情報が毎日あふれるほど流れているので食傷気味。また別の機会に取り上げようと思います。


 今月初め、ついに「香港国家安全維持法」が施行された。もはや「香港は死んだ」と言ってよい状況となってしまった。
「香港の挽歌 もう誰も共産党を止められないのか」

 次の記事の内容によれば、中国・香港籍ではない外国人でも、中国政府を批判していれば香港を訪れた際に逮捕される可能性があるそうだ。一部を抜粋しておこう。

「・・・中国外からの香港民主派支援や中国共産党を批判する言動も同法に抵触する恐れがあり、2日付の香港紙・明報は「外国人が海外で違反行為をした場合、香港を訪れた際に逮捕される可能性がある」と報じた。国家安全法第38条は「香港特別行政区の永住権を持たない者も香港以外で規定の罪を犯した場合、本法が適用される」と明記。香港の司法関係者は「全世界80億人が対象だ」と困惑する。・・・」


「違反外国人、香港で逮捕の恐れ 国際金融センターの地位に影 ― 国家安全法」

 「この法律の施行が、中国共産党王朝の今後の長きにわたる没落の最初の一里塚になるだろう」などと当ブログに書いている筆者のような一般平凡人も、今後香港に行けば逮捕される可能性が出てきたのかもしれない。この法律をその文字通りに運用したら、香港を訪れる外国人の多くが逮捕されて中国に送られ、中国国内の刑務所が満杯になりかねないだろう。

 中国の法律の怖い所は、判断基準を故意に曖昧にして、その運用を司法側の解釈しだいにしているところだ(最近では、日本の司法にもそのような傾向が見られるようだ)。実際には、警察や検察はその場の気まぐれや、上部への忖度の度合いによって逮捕対象を決めるのだろう。表面的には法治を装いながらも実質的には人治とすることで、取り締りの対象からの権力側への賄賂の増加を期待しているのではないかとさえも思いたくなる。

 いずれにしても、もはや香港にも、まして中国大陸にも足を踏み入れる気にはならない。何処に行っても監視カメラの網目から逃れられず、その記録が後でどのように利用されるのかわからない国には到底行く気がしないのである。香港には過去に四度ほど行ったことがあるが、もうあの鉛筆みたいに細い高層ビルが林立している街を、多種多様な人種で混雑しているオモチャ箱をひっくり返したような街の中を歩けないかと思うと何とも残念だ。

 以前にも書いたかもしれないが、香港では「そごう」デパートによく行った。元々は日系資本だったが、日本のそごうが経営破綻して香港から撤退した後は、現地資本が店を引き継いで店の名前はそのままにしていた。五階か六階には日本の雑誌を置いている書店コーナーがあり、日本の文字に飢えていた筆者は定価の約五割増しの雑誌を何度か買ったものである。当時の中国本土では英語が通じるのは若い人だけだったが、香港ではたいていの人が英語を話せる。ただし、地元出身者同士になると北京語とは発音が著しく違う広東語での会話なので、はたで聞いていると何について話しているのかさっぱりわからない。
 このデパートの近くには中国政府の批判書をたくさん置いていることで有名な「銅鑼湾書店」があり、十数年前に一度訪ねてみたことがある。予想外に小さな店で、鳥取市内で言えば、今はもう無くなったが若桜街道沿いの今井書店の二階部分程度の狭さであった。大陸では禁書の毛沢東批判本などが堂々と売られていた。店の外に出ると、近くの街頭で「中共を殲滅せよ」とのノボリを立ててアジ演説をやっている人達もいた。今思うに、彼らは江沢民政権から大弾圧を受けて国外にのがれた「法輪功」集団の一部だったのかもしれない。法輪功については、また別の機会に触れたい。

 中国本土でこんなことをやったら、直ちに警官が駆け付けて来て、ボコボコに殴られて引っ張って行かれるだけのこと。「香港は本当に自由なんだ」と思ったものである。この店の店主等は、2015年以降に相次いで中国政府に不当にかつ暴力的に拘束され、今ではこの書店名のままで台湾に移転済みである。その気にさえなれば、自ら作った法律も、他国との間の約束も平気で破るのが今の中国政府なのである。彼らの言うことを信用してはならない。


/P太拝

香港と中国のこれからは・・・

 今年初めから当「市民の会」で取り組んできた鳥取市の旧本庁舎跡地問題ですが、ようやく会としての提案をする段階にまでに至りました。今月初めに市長あてに公開質問状を提出、今月末くらいには回答が得られる見込み。提案の骨子は、「旧本庁舎は解体せず耐震改修して存続させ、災害時の中心市街地の避難所として再活用する」というもの。
 市内の避難所の分布を調べてみて、市中心部には避難所が全く無いことに気づいたのがこの提案を検討するきっかけでした。先日、市内では二日間にわたって激しい雨が降り続いたが、梅雨も台風もこれからが本番。なのに、鳥取市の現状では避難所の確保さえもまともにできていない。市内中心部が水没したら、いったいどこに逃げたらよいのでしょうか。鳥取市民の方は是非ご一読ください。

 

 日々のニュースはあいかわらずコロナの話題が大半で各種情報が入り乱れ、最近は食傷気味で取り上げる気にもなれないのだか、気になる点を一点だけ。

 「日本のPCR検査が少ないのはやむを得ない」という主張は二月時点からあったのだが、最近は「PCR検査が少なかったからこそ、日本は感染を抑え込めた」という珍説まで登場しているようだ。少し調べてみると、このような「検査数抑制肯定論」を唱えている論者の大半が医療関係者、または医療界に詳しいジャーナリストであった。彼らは検査数を増やせない理由を日本医療界の現状を説明しつつ展開しているのだが、傍目で見ると「できない理由をあげつらって現状維持をもくろんでいる」ようにしか見えないのである。

 視点を変えて、「なぜ韓国、ドイツ、米国等は急速に検査数を拡大させて、一日の検査能力を日本の数十倍、数百倍に出来たのか」という点を突き詰めていけば、日本の欠陥が浮き彫りになると同時に有効な対策も明らかになると思うのだが。他国と比較してみない限り日本の欠陥は見えてこないが、そのような論者はまだ表れていないようだ。

 この「出来ない理由をあげつらうことで新しいアイデアをつぶす」という姿勢は、上は国政レベルから下は零細企業の経営にいたるまで、日本国内の至るところで日常的に見られる光景である。先日、「九月入学論」(筆者はこの案に賛成!)がつぶされたのもその一例に過ぎない。

 この「出来ない理由の展開論者」とは、今までの体制の中で既得権益を確保しそれにしがみつこうとしている者、または新しい体制に踏み出す自信が無いか不安を覚える者に他ならない。彼らは、「出来るようにする努力」を最初から捨てて、「出来ない理由」を数え挙げることばかりに精力を費やしている。ぬるま湯につかっているカエルは、「アア、極楽、極楽、ここから出たくない」と眼をつぶってのんびりしているうちに、いつしか湯から出ることもままならなくなり、ユデガエルと化してしまうのである。

 

 さて、コロナ感染以外の話題で最近気になっているのが香港と中国のこれからである。香港の政治的自治を破壊しようとする現在の中国の姿勢については、筆者は「金の卵を自ら踏みつぶすようなもの」と思っているのだが、同じ見方をする論者が大半のようである。

「習近平の大誤算…いよいよ香港から「人」も「カネ」も大脱出が始まった!」

 福島さんの記事を読むのは久しぶりだ。産経新聞の元記者で、北京駐在時に取材内容で上司と対立してホサれ、結局は退社してフリーとなった経歴を持つ。取材力には定評がある人。
 もう一つ記事を上げておこう。経済面から見れば、米中対決では元々から中国には勝ち目がないことがよくわかる。

「香港「国家安全法」巡る米中対決、中国に勝ち目ナシと言える理由」

 もう、中国は「大国意識」を早く振り捨てた方がよいと思う。過去の栄光の復活を追い求めて長大な国境線を維持しようとし続けることで、ウイグルチベット内モンゴルの人権を踏みにじると共に彼らの伝統文化を破壊、国内では単なる見栄にすぎないバカでかい建物を建て続けることで膨大な資源を浪費、全ての国民の行動を常時監視、各種宗教を弾圧、いまだにまともな選挙すら実施できないありさまである。「中国の特色ある社会主義」の実態とは、結局は、かってジョージ・オーウェルが描いた「1984年」の具現化、「監獄国家」の実現にほかならない。

 そもそも、移民を受け入れない(移民が行きたがらない)国が、超大国として長きにわたって君臨した例はない。ローマ帝国、唐代の中国、チンギスハンが建てたモンゴル帝国大英帝国、現代の米国。大国化の過程では相当悪辣なこともやったが、超大国に成長したのちは、むしろ憧憬の対象となって大量の移民を受け入れ、各種の民族や宗教も含めた多様性も容認し続けたのである。現代中国に移民したい人間が、今、世界中に何人いるだろうか。

 今回のコロナ騒動の前から中国経済は成長が止まりつつあったが、この騒動による各国企業の生産分業体制の見直し、さらに香港への政治的介入によって、海外から中国への投資は今後一段と細るだろう。人材の流出も加速するはずだ。

 今年のアジア地域大学ランキングによると、トップ10大学のうちの実に三校が香港の大学なのである。(ちなみに、日本からのトップ10入りは東大だけ。)中国大陸から香港の大学に入学した学生も多いようだが、一度自由の空気を吸った若者が、自らすすんで再び監獄国家に戻る可能性は低いだろう。香港経由で中国大陸からの資本と人材の流出が加速していくことになる。

 輸出による外貨獲得で成長し、「一帯一路」構想で途上国に投資する立場にまで至った中国だが、その経済の前途には暗いものがある。経済が下降し始めた途端に社会が不安定化し、時の王朝が打倒されるのが中国の歴史の常なのである。習近平が「中国共産党王朝」の最後の皇帝となる可能性も、わずかながらも出てきたのかもしれない。

 中国共産党もいずれは歴史の舞台から退場することになるだろうが、大陸の中国人はその後の将来像としてはEUを参考にするのがよいと思う。各地域の自治を重視しつつ、全体としてはゆるくまとまっている連合体を目指せばよい。各地域毎の在り方としては台湾がよいモデルとなるだろう。地域ごとに独立色を強めた方が、大陸の中国人は今よりもはるかに幸福になれると思うのである。

 もはや国家間で大きな戦争をするような時代ではないので、国の軍隊の規模を誇る必要はない。。現代の戦争とは経済覇権をめぐる競争、細分化すれば、資源確保力、技術力、文化的ブランド力をめぐる競争であり、最新兵器や軍隊は既に「相手を威嚇するための見せ球」と化しつつある。あまりにも互いの経済的・人的関係が深まりすぎていて、「国家間で全面的な戦争をしたくても実際にはできない」のである。

 1989年6月4日、日曜日の早朝、筆者は四国の山中にテントを張って小型ラジオから流れるニュースに耳を傾けていた。当時はまだ、暇さえあればあちこちの山に登りたかった頃で、前日から四国の山に遠征していた。天安門広場近くに人民解放軍が集結しているとの報道が前々からあり、気になってラジオを持参していたのだ。「天安門広場で軍が発砲している」との報道を聞いた瞬間、これからいったい中国はどうなるのだろうと思ったことを覚えている。自分が将来、中国で一定期間働くようになるとは、当時は想像もしていなかった。

 その後の展開は周知の通りだ。欧米が批判を強める中、「人権よりも目先の儲けを最優先」する財界の圧力を受けた日本政府は、他国に先駆けていち早く中国との経済交流を再開させた。1990年代に入ると日本の製造業が先を争うようにして中国に進出、中国経済の高度成長を技術と資本の両面で大いに支援したのである。筆者が在籍していた業界でも、大半の会社が中国に進出して自前なり合弁なりの工場を持ったものの、いまや大半の製品でお株を奪われて国内工場は軒並み閉鎖。国内メーカーで元気なのは、特定の分野に特化して競争力を磨き続けた少数の部品メーカーだけとなった。

 当時の中国は経済的には小国にすぎず、日本が欧米諸国と足並みを揃えて中国を経済的に孤立させることは現在よりもはるかに容易であったはずだ。当時の日本政府がそのような選択肢を取っていたら、今の中国がこれほどまでに世界に対する大きな影響力を持つには至らなかっただろう。

 今後、香港で天安門事件のような規模の大虐殺が再び起きるとは思えない。リーダーになり得る優秀な若者ほど、人民解放軍がやってくる前に早々と香港から逃げ出すだろうから。英米を始めとする欧米諸国も、台湾も、もろ手を挙げて彼らを歓迎している。日本文化に親しみを感じる香港の若者もかなり多いとのことなので、日本にもどんどん来てもらえばよい。日本政府も、日本の経済界も、31年前の経験にあらためて学ぶべきだと思う。

/P太拝