「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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一人当たり県民所得、鳥取県は三年連続ブービー賞!(3)

(先回からの続き)

 今回は、これだけ県経済が落ち込んでいる中で、行政は何をやっているんだ!という話にするつもり。

(4)県と言う行政単位は必要か?
 
 いきなり過激なタイトルとなってしまったが、行政での県の役割という問題を調べてみるほどに、この疑問がどんどんアタマの中で膨らんでしまうのである。まずは、次のサイトをご覧いただきたい。


 ビックリしたのは、このサイト記事の中ほどにある「鳥取県知事選挙結果」の内容だ。自分の印象にある県知事は、片山-平井の二氏ぐらいで、それ以前の石破-平林-西尾の三氏は名前を憶えている程度。これら三氏の具体的な県政内容がどうだったかは、まったく記憶が無い。

 さて、片山、平井の両氏の選挙だけに限ると、ほぼ毎回、当選した保守系無所属(主に自民が支持、民主も支持していたかどうかはよく判らない)と共産党系候補の二者のみの争いであった。片山氏の一期目の1999年の選挙だけが、この構図に田村耕太郎氏が加わり三つどもえとなっている。

 筆者が自分自身の行動を思い返してみるに、県知事選の投票に行った記憶がほとんど無い。大半は投票に行かなかったように思う。三氏が立候補した1999年だけは投票に行ったのかも知れないが、誰に投票したのかもよく覚えていない。少なくとも、対立候補共産党だけだった時には投票に行かなかったと思う。結果が最初から見えている選挙くらいバカバカしいものはないからである。筆者と同じように感じる有権者も多いのだろうか、最近二回の知事選の投票率は六割を切っていおり、昨年春の知事選の投票率は57%弱であった。

 ついでながら、片山氏の二回目の知事選が無投票当選だったことを知って、あらためて驚いた。その当時は当然知っていたはずだか、すぐにそのことを忘れてしまったようだ。知事選の存在価値がまことに低いことを、再認識したしだいである。

 なぜ、最近の知事選の投票率が低いのだろうか?衆院選に限ってみれば、2014/12衆院選の県内での投票率は54%、その前の2012/12衆院選は63%だが、自民党から旧民主党への政権交代を決定づけた2009/8の衆院選の県内投票率は75%と高くなっている。「今までの政治を、自分の投票行動しだいで変えられるかもしれない」と思えば投票に行くのである。「投票しても何も変わらない」と思っているから、投票に行かないのだ。

 それでも、国政選挙では、各政党が選挙のたびごとに離合集散するとはいえ、まだ競争率は高い。鳥取県知事選の場合には、ほぼ毎回、保守系無所属 vs.共産党系の構図で、時には無投票再選もある。競争原理が働かないポストは、沈滞し、いずれ腐敗するというのが世の習いである。

 ただし、競争原理が働かないのは、もともと知事という職種がそんなに魅力があるポストではないからかもしれない。第一、知事の権限って何なのか、よく判らない。

 市町村等の自治体の首長・議員・職員の権限と職責は明確である。住民と毎日向き合い、医療保険・年金などの社会保障サービスの窓口、公共料金や一部の税金の収集窓口、ゴミ処理、災害時の住民のケア等々、まことに忙しい。自治体の機能が不全になると、直ちに住民生活に支障が生じる。

 国会議員の職責も明確だ。国の法律を決め、国の方針を定めること。国会議員の中から選ばれた首相が国の行政、外交、その他すべての国に属することの運営に責任を持つことだ。

 では、県知事、県会議員、県職員の役割とは、一体なんだろうか?「自治体と国の中間に位置していて、自治体からも、国からも、目が届かない領域をフォローするのが役目」、とでもいうのだろうか?もう一つはっきりしない。
 以前は、県政のことなど何も考えていなかったが、鳥取市政に関心を持つようになってからというもの、「県の役割っていったい何なんだ」と思うことが多くなった。誰か詳しい方がおられたら、教えていただきたいものである。

 こう感じるようになったのは、もう一つには、「最近の鳥取県政は、パフォーマンスばっかりで中味がない」と感じているからでもある。夕方のNHKのローカルニュースに県の取り組んでいる政策内容が載れば、それで目的は達したと思っているのではないかとさえ思えてくる。要するに、結果を達成することよりも、県民に「県は良くやっている」と思わせることの方が、今の県政の主要目的になっているようだ。

 長い目で見たら失敗した政策でも、そこまで追いかけるマスコミは現在ではいない。一時的にでも成功すれば、最近の鳥取のローカルマスコミは一過性で騒ぎ立てる。

 この傾向は鳥取県に限ったことではない。他県の知事も、さかんにテレビに出ては自分の県の特産品を食べたり飲んだりしている。こんなパフォーマンスばかりやっているのが県の首長なら、県という行政単位なんぞは不要である。人と予算が潤沢であり余裕があるから、自分を良く見せようとするパフォーマンスをやっていられるのだ。結果を出すことだけに集中させ、ムダを徹底的に省いて合理化し、小さな組織で広い範囲を担当させればよい。たとえば中国五県をまとめて「中国州」を作ればよいのだ。五人もの首長があちこちでパフォーマンスしてみせる必要はない。

 先回までに述べた、「一人当たり県民所得、鳥取県が三年連続でブービー賞」というような、県政にとって都合の悪い事実は、決して報道されることはない。本ブログのような零細メディアしか指摘しないたぐいの話題なのである。今の県経済の停滞を打破するような取り組みを、今の県政はちゃんとやっているのか?と、いうのが、この記事の以下の主要な論点なのである。

 とは書いたものの、例によって長くなるので、この続きはまた次回・・・。