「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

当ブログの内容は編集者個人の見解であり、「市民の会」の公式見解ではありません。当ブログへのリンク、記事内容の引用等はご自由に!

ベトナム独立を支援した鳥取県人

毎年八月になると、先の戦争に関するテレビ報道や記事を多く見かけます。昨年の8/15に公開された下記のネット記事の存在を、昨年秋になってから知りました。今年の敗戦記念日(「終戦記念日」という表現は真実を隠蔽している)は既に過ぎましたが、地元関連の情報でもあり、この場で紹介しておきたいと思います。

 

(1)ベトナム独立を支援した鳥取県

「「ベトナム独立戦」を支えた旧日本軍「秘密戦士」の生涯(下)2つの受勲と悲劇」
この記事は上中下の全三部の三番目であり、無料で読めるのはこの(下)だけで、(上)と(中)は本来は有料。

しかし、この記事を書いたジャーナリスト氏自身のブログに、(上)(中)(下)の全文が掲載されているのを発見した。以下に示す。
「「ベトナム独立戦」を支えた旧日本軍秘密戦士の生涯」

ベトナムでの残留日本兵誕生の経緯については、wikipedia等から拾った情報を元に、以下に時系列的に示す。

 「ベトナムに進駐していた陸軍第38軍独立混成第34旅団の井川省少佐は1945年5月に中部の古都フエに着任。フランス植民地からの独立を目指して活動していた組織のベトミンと交流を深めた。1945年8月の日本敗戦の際には、部下の中原光信少尉に命じて非公式にベトミンに武器を提供した。

その後、井川少佐は少数の部下と共にベトナムに残留し、ベトミン軍幹部に日本式の軍事教育を施して対フランス独立戦争に協力。井川少佐は1946年4月にフランス軍待ち伏せ攻撃に遇い戦死したが、その遺志を継いだ中原元少尉以下が「クァンガイ陸軍中学」を設立し、引き続きベトミン軍の幹部養成を行った。この学校の教官の中の一人が、上に紹介した谷本喜久男元少尉である。」

谷本喜久男氏は1922年に鳥取県に生まれ、1941年に鳥取師範学校を卒業、日光尋常高等小学校(現 伯耆町)に勤務。
1943年 招集により入営。
1944年 陸軍中野学校二俣分校卒、サイゴンに赴任。
1954年に帰国、翌年復職するとともに結婚。当時の住所は八頭郡河原町(現在は鳥取市に併合)。

ベトナム残留後の谷本氏の活動の詳細については、最初に紹介した二点の記事を読んでいただきたい。陸軍中野学校二俣分校は、敵方占領地域のゲリラ戦要員の養成を目的として敗戦が濃厚となった1944年に急遽設立された機関であり、同校の「たとえ国賊の汚名を着ても どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ」との教育方針が、日本敗戦後になっても同氏の生き方の選択に大きな影響を与えた可能性はある。


1954年5月に終結した「ディエンビエンフーの戦い」でベトミンが勝利したことでベトナムはフランスからの独立をほぼ手中にしたが、谷本氏の手記にはこの戦いに同氏も参加したように読み取れる記述があるとのこと。小学校長退職時には「教え子に一人の死亡者もなかったことは、何といっても一番の幸せ」と述べられているが、ベトナム各地で無数の死を見て来た経験を踏まえての言葉なのかもしれない。


さて、同氏やその仲間の当時の活動は現在のベトナム政府から高く評価されているが、旧日本軍によるベトナム占領が現地にもたらした負の影響についても触れておかねばならない。東南アジアの中でベトナムミャンマーやフィリピンとは異なり直接の戦闘地域にはならなかったものの、1944年秋から1945年春にかけて北部ベトナム大規模な飢饉が襲った。天候不順に加えて、日本軍の大規模な食糧徴収、連合国側空襲による輸送の途絶、フランス植民地政府の意図的なサボタージュ等がその原因とされている。

ベトナム人の餓死者は少なくても40万人(日本側の推定による)、ベトナム側には約200万人に上るとの説もある。太平洋戦争での日本民間人の死者総数約80万人(東京大空襲、広島・長崎の原爆、各地空襲被害による国内死者が約50万人、ソ連満州侵攻等による外地の死者が約30万人)に匹敵する膨大な餓死者数であり、その大半は日本が同地に進出しなければ死なずに済んだ人々だっただろう。この事実を踏まえると、残留日本兵ベトナム独立の英雄として単純に賛美する気持ちにはなれないのである。

さて、最初の二点の記事を読む限りでは、谷本氏は温厚でおだやかな人柄であったようである。筆者の知人の中に、同じく鳥取師範卒(同氏とほぼ同期)で数年前に亡くなられた人がいた。県東部で長らく剣道をやっていた方なので、谷本氏のことはよくご存じだっただろう。谷本氏のことをもっと早く知っていれば、「どんな人でしたか?」と聞くこともできただろう。残念である。

 

(2)旧鳥取一中卒業生の戦死率

かなり以前のことだが、高校の同窓会名簿をなにげなく見ていた時に、特定の卒業年度の学年だけが異常に戦死者の比率が高いことに気づいた。上の谷本氏に関する記事の紹介を書いている過程でそのことを思い出したので、この機会に調べてみた。

筆者の手元には家族が卒業した学校の同窓会名簿が何種類か残されているが、その中で一般的な死因と戦死・戦病死とが明確に区別されていたのは旧制鳥取一中(現在の鳥取西高)のものだけであった。以下、調べた結果を紹介しておこう。なお、この名簿では死因不明の方が各学年ごとに数名から十数名程度は存在するので、実際の戦死・戦病死者の数は下の数字よりもさらに多いものと思われる。

 

「旧制鳥取一中卒業生の戦死・戦病死者の比率」

卒業年 卒業者数 戦死・   比率   備考
        戦病死者数  (%)
1926/3  130     3         2.3
1927   165      12           7.3
1928   153     5         3.3   6月 張作霖爆殺
1929   165      13      7.9    10月 世界恐慌、 11月 金解禁
1930   141     4      2.8
1931   175     5      2.9        9月 柳条湖事件
1932   167      18       10.8     2月 満州国建国、 5月 5.15事件
1933   156      25       16.0     2月 熱河侵攻、 3月 国際連盟脱退
1934   153      22       14.4
1935   168      22       13.1   12月 華北の冀東政務委員会成立
1936   160      23       14.4     2月 2.26事件、 12月 西安事件
1937   163      40       24.5     7月 盧溝橋事件、日中戦争開戦 
1938   187      51       27.3     4月 国家総動員法公布
1939   189      28       14.8     9月 第二次世界大戦開戦
1940   166      35       21.1      10月 大政翼賛会発足
1941   171      13      7.6    12月 太平洋戦争開戦
1942   187      13      7.0   6月 ミッドウェー海戦
1943   191      10      5.2    10月 学生・生徒の徴兵猶予停止(学徒出陣)
1944   186        8      4.3      8月 学徒動員令
1945-1  223      2      0.9      8月 ポツダム宣言受諾し敗戦
1945-2  207      1      0.5
1946     87      0      0.0

1945年の敗戦時には三十代後半で既に中年と言ってもよいであろう世代からも戦死者が出ている。敗戦の時点では幼児から老人に至るまでの全ての日本人男性の十人に一人が兵士として動員されていたそうだから、当然の結果なのかもしれない。

気の毒なのは1945年の卒業生中の戦死者である。3月に卒業して8月敗戦までのわずか数か月の間に、まだ16歳から17歳くらいの若者3名が戦争終結を迎えることなく戦死されている。
戦死・戦病死者数の比率の推移グラフも示しておこう。

f:id:tottoriponta:20210901081632j:plain

戦死率がピークの1937~1938年卒業の世代では、実に同級生の約四分の一が戦死するという異常な状況であった。現在の我々には想像することすら困難である。

戦前の旧制中学は基本的には五年制であり、尋常小学校を卒業した男子が入学。一般的には12歳以上で入学して16歳以上で卒業する。なお、戦時中であることを理由に1944年に四年制に変更された結果、1945年3月には五年修了と四年修了の二種類の卒業生が生じている。
仮に17歳で卒業したとすると、1937年卒は1945年の終戦時には25歳前後であったはずだ。二十代前半の、兵士としてちょうど「使いごろ」であった世代が大量に死んでいるのである。

「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書) 」(2019年 新書大賞受賞)によると、日本軍の軍人・軍属の戦没者約230万人の九割が1944年以降に亡くなったと推定されるとのこと(以下に挙げる数字はこの本からの引用)。上の表の戦死者の大半も、この時期に亡くなったのだろう。

当時の政府と軍部は、既に1943年末の時点で敗戦必至という客観的情勢を故意に無視し続けた。彼らが、止める勇気のないままにダラダラと戦争を引き延ばしたおかげで、さらに約200万人もの兵士と約80万人の民間人とが無駄に死ぬことになった。


この同窓会名簿の「戦死」表示の二割程度には戦没地も記載されている。それを見ると、ガダルカナル、ソロモン沖、ニューギニア、フィリピン、中国大陸等々、実に広範囲にわたる。アジア太平洋地域のほぼ全域で鳥取出身者が戦死しているのである。中にはアラカン山系というのもあるが、これは現在のミャンマーの地名であり、参加兵士の大半が餓死したインパール作戦の参加者であったことを示している。

ガダルカナルニューギニア、フィリピン、ミャンマー等での戦死者については、その過半数が敵との交戦によるものではなく補給の不備による餓死であったとするのが既に定説となっている。全ての戦線における餓死、撤退時の病人・負傷者等遺棄者の味方による(温情的)射殺や自殺強制、軍隊内での古年兵による新年兵いじめに起因する自殺等々が、名目上は戦死や事故死扱いとなっているのである。詳しくは上記の新書を参照されたい。

筆者の父親は十年ほど前に亡くなったが、1941年に旧制中学を卒業している(上の表とは別の学校)。何らかの事情で入営が少し遅くなり、21歳で海軍に入って呉で訓練中に広島にキノコ雲が上がるのを目撃したそうだ。

上の表によれば、あと一、二年早く生まれていたなら、父が戦死する確率はぐんと上がっていただろう。また、原爆投下時にちょうど広島市内にいたならば、今の筆者は存在していなかったのかもしれない。上で紹介した谷本氏のように実際の戦場に行った人もそうなのだが、父のように軍隊に入営しただけで終わった人間も軍隊生活の話はしたがらないようで、「広島のキノコ雲を見た」という以外には軍隊に関する話をすることは一切なかった。

今回ここで紹介したようなことは、決して遠い国や、映画やアニメの二次元世界の中での話ではなくて、現在の日本に生きている幼児から高齢者に至るまで、各々の家系を多くても三代前までさかのぼれば、全ての日本人が、そして日本の周辺国の全ての人々が実体験してきた事実なのである。少し世代をさかのぼって調べてみれば、全ての家庭にそれぞれに固有の戦争の傷跡が残っているはずだ。

筆者の世代は、その前の世代とは違って、国から他国の人を殺すことを強制されることもなく、その国の政府から殺人を強制された他国の人に殺されることもなく、それぞれに与えられた寿命に従ってこのまま死んでいけそうなのは幸せというほかはないが、これは前の世代の人たちによる悲惨な体験と深刻な反省とからもたらされた賜物なのである。様々な意見はあるだろうが、起こった事実は事実として、次の世代にも必ず伝えていかなければならない。

/P太拝