「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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尾崎放哉の記事を見つけました

 最近、鳥取市内では尾崎放哉に関するイベントが目立ちます。先週、とりぎん文化会館にぶらりと入ったら、彼の俳句の筆写に限定した書道展をやっていました。なんでも、今年は彼の生誕130周年とか。

 30才前後の頃、吉村明の「海も暮れきる」を読んだことがあります。酒におぼれ、破滅への坂をどんどんと下って行く放哉の様子を、吉村氏特有の執ような描写でていねいに描いていました。
 「うーん、ひょっとしたら、俺もいつかはこんな風に・・」とやや不安になりながら読んだような記憶があります。

 同じころ、同じく自由律俳句の放浪者、種田山頭火の伝記を読みました。自分を突き放して見ている放哉に比べると、山頭火には自分への甘えがあるような気がして、どうも好きにはなれませんでした。

 最近、佐高信さんが放哉に関する評論を書いているのを見つけました。今年の一月に鳥取市内で放哉に関するフォーラムがあったとのこと。全然知らなかった。

 この記事の中で、放哉の「漬物桶に塩ふれと母は産んだか」という俳句が紹介されています。これを読んで筆者はドキッとしました。自分も同じような局面で今は亡き母を同様に思うことが、いまだにあるのです。
 この評論の最後の方で、片山前鳥取県知事が放哉の俳句を知事室にかがげていたという話が出てきます。これがまたなかなか面白い。

 佐高さんは、人間の持つ本質的な意味で放哉につながる人物として、コメディアンの又吉直樹(今年の芥川賞受賞者)についても書いています。

 尾崎放哉はどうしようもない酒乱だったようだが、筆者の家系にも酒乱が結構いました。それも、父系も母系も、両方とも。幸い自分は、ただの酒好き程度で収まっているようだが・・・? どうも鳥取は、他の土地に比べて酒におぼれる人間の割合が多いように思います。要するに、この地には自虐的傾向の強い人物が多いのだろうか。さらに、物事を悲観的に見て喜ぶという屈折した傾向のある人間が、よその土地よりも多いような気もする。 

 鳥取出身の自虐的人物といえば、筆者はすぐに漫画家の山松ゆうきちを連想してしまう。一度も売れっ子になったことはないB級漫画家であり、「知る人ぞ知るという存在」でしかないが・・。彼の一種下品な、スーパー自虐性を超えられる人物は、なかなかほかには出てこないと思う。漫画なら何でもすぐに飛びつく平井知事も、山松ゆうきちだけには、決して近づこうとはしないだろう。

 とりとめもない話になってしまったが、最後に言いたいことが一つだけあります。

 最近は放哉や尾崎翠など、鳥取出身の文学者がかなり世間に知られるようになってきたが、彼らを地域起こしのネタ等、カネ儲けや観光に利用することは、ほどほどにしておいてくださいね。郷土の先人をカネ儲けのためだけにを利用しようとする人間が多ければ多いほど、先人のイメージは弱まり、その土地全体が薄っぺらな印象を与えてしまうことになります。

/以上