「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

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「続・倭人の真実」の報告

 三日前の2/24以来、あまりニュースを見ていない。ロシアのウクライナへの侵略関連の記事を読むとハラが立って仕方がないからだ。それでも、昨日の渋谷ハチ公前に二千人が集まってロシアに抗議の声を挙げたという記事は嬉しかった。参加できる機会があれば参加したい。

 もっともいくら世界中で抗議の声を挙げたところで、鉄面皮の野蛮人、プーチンにはカエルのツラに何とやらだろうが・・。やはり、経済的に締め上げてロシア内部からの変革に期待するしかない。そう思っていたら、先ほど、「ロシアを国際間決済網SWIFTから排除決定」のニュースが入って来た。これで当面の間は、ロシアの輸出入の大半が実質的に不可能になるだろう。

 「ロシアを経済的に追い込むとますます中国寄りになる」との声もあるが、くっつきたければ勝手にくっつくがよい。領土拡張が国是の似たもの同士、そのうちに仲間割れが始まるだろう。

 そもそも、世界史の上では、誰もが移住したがらない国が長きにわたって繁栄した例はない。今のロシアに至っては、優秀な国民ほど先を争って欧米に移民している。後に残るのは、ロシア名物の酔っ払いと、プーチン一派に代表される犯罪者集団だけになるだろう。

 さて、今回の本題は、昨年10/30に開催された県主催のシンポジウム「続・倭人の真実」の参加報告です。この間、コロナや風力発電問題にずっと関心が向いていて、なかなか手をつけてはいませんでした。

 先週の2/17から約一週間にわたって鳥取市内では雪が降り続き、県東部のオミクロン株新規感染者数も増加の一途。感染は極力避けたいので、外出もほとんどせずに家にこもってばかりいました。そのおかげでというのか、溜まっていた課題はある程度は片付けることができ、この報告もそのうちのひとつです。だいぶ時間がたって記憶も薄れてしまいましたが、当日の配布資料とメモとから内容を再構成しました。

 なお、先回のシンポジウムの開催は2019年3月でした。その時の参加報告も当ブログに掲載していますので、ご参考まで。

 

シンポジウム「続・倭人の真実」

日時:2021/10/30  於 とりぎん文化会館鳥取市)小ホール

 定員200名で、それを越えた場合にはオンライン参加になるとのことだったが、リアルの会場で参加できた。会場にはまだ若干の空席があった(コロナ対策で席の間隔を空け、事前予約者に席を指定しての開催)。参加者にはやはり年配の方が多かった。

(1)講演

 講師の三名の方は、いずれも二年前の前回(2019年3月開催)にも参加されている。以下、講演の概要。

① 「弥生時代研究の変革-ヤポネシアゲノムと考古学-」 

  藤尾慎一郎(国立歴史民俗博物館

 まず、弥生時代のゲノム(遺伝子)の変遷について。

 BC 1000年 弥生時代が始まる。(=水田耕作の開始)
 BC 600  福岡と名古屋で渡来系の人骨が初確認される。
   BC 400  北九州の甕棺(かめかん)では人骨の99%が渡来系。
   AD 200  青谷上寺地では人骨のほぼ100%が渡来系

 各地の遺跡で出土する土器の様式とゲノムの間には相関があると思われる。以下、その例。

・弥生前期後半(BC850頃)には縄文系の祭祀具が水田遺跡から出土し始めた。これは縄文系の人々が水田耕作に参加し始めたことを示しているのだろう。この頃に弥生と縄文のDNAの混交が始まったのではないか。

・BC 700~650の鳥取平野の古海遺跡では縄文系の土器(古海式)が圧倒的、佐賀の吉野ケ里も同様。

・弥生中期(BC700~)以降は縄文系と弥生系の土器が互いに混じり合うようになった。DNAも同様だろう。

まとめ:「西日本各地の水田稲作開始期には、DNAを異にする渡来系水田稲作民、在来系採集・狩猟民と、未確認だが在来系水田稲作民をも加えた多様な人々が存在して、その後の倭人形成をスタートさせた。」

 

② 「青谷上寺地遺跡出土人骨から何が見えてきたのか」 

  篠田謙一(国立科学博物館

「出土した人骨の特徴」

・かなり多くの頭蓋骨が焼かれている。今回は29個体を観察したが、そのうち27個体については焼かれたことが確実か、焼かれた可能性が高い。軟部組織が残存した状態で、頭蓋骨全体ではなく、その一部が比較的低温(600~800℃)で焼かれている。

・頭部や四肢の骨には殺傷痕と思われる鋭利な傷跡もあるが、ひっかき傷のような解体痕も認められる。

・全109体(推定)のうち、成人三体、幼児二体が結核に罹患していた。

 

ミトコンドリアDNA」

・36サンプル中32個体について解析できた。既に前回に報告したように、このうち縄文系であることを示すM7aタイプは1個体のみであり、残りは渡来系のタイプであった。

・渡来系のハプロタイプは多様であり、その中で同じ母系に属することを示す同一タイプは2組、4個体しかなかった。これは、この青谷の集団は母系でつながった集団ではなくて、様々な出自を持つ人間の集まりであったことを示している。

 

「核ゲノム」

・13体について全ての染色体遺伝子を読みだす核ゲノム解析を行った。10体が男性、3体が女性だった。

・男系を特定できるY染色体ハプロタイプは、ミトコンドリアのタイプとは異なり在来の縄文人に由来するタイプが多かった。前回の段階では4体中3体が縄文系のC1とDだったが、現時点で解析を終えた8体中の5体が縄文系、3体が渡来系だった。

 

「ヒトゲノム(SNP)の他地域との違い」

・下の図-1に青谷上寺地のゲノムデータと東アジア各地・各時代のデータとの違いを主成分分析という手法によって示す。

・東アジアの現代人の大陸集団は地理的分布と同じ順序で並んでいるが、縄文人はこれらからは大きく隔たっている。現代日本人は縄文人と大陸集団との中間に位置し、さらに現代韓国人は現代日本人と現代中国人との間に位置している。

・青谷上寺地の人骨のゲノム分布は現代日本人のそれとほぼ重なる。また、安徳台の弥生人は従来は渡来系とされて来たが、縄文人の要素を青谷と同程度含んでいる。さらに、下本山のように従来は縄文人の直系子孫とみなされて来た西北九州の弥生人も、弥生中期にはかなりの割合で渡来系の要素を含んでいた。一方、東北地方の弥生人は、この時代にはまだ縄文人と同一とみてよい。

・弥生以前の時代の韓国の獐項遺跡も縄文人の要素を含んでおり、現代韓国人よりも縄文の要素が強い。これは縄文人朝鮮半島まで広く分布していたとするよりも、縄文人の祖先が大陸沿岸を北上する過程で、その遺伝子が朝鮮半島にも残ったと考える方が理解しやすい。

図-1 SNPデータを用いた主成分分析(当日の配布資料から転載。図はクリックで拡大、以下同様。)

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安徳台:福岡県那珂川市の弥生中期の遺跡
下本山:長崎県佐世保市の弥生中期~後期の遺跡
大友 :佐賀県唐津市の弥生早期の遺跡
獐項 :韓国釜山市 日本の縄文時代(BC 4300年頃)
Devil's gateアムール川下流域 (BC 5700年頃)

「今回、顔を復元した8号男性について」

・ゲノム全体としては若干縄文側に寄っている。母系は渡来系。父系は縄文系でY染色体はC1a1。

・脳が残っていた3個体の中では最も多く脳が残っており、受傷痕もある。

・30代半ばくらいで亡くなっている。

 

③ 「青谷上寺地遺跡出土人骨の時代背景」 

  濱田竜彦 (鳥取県地域づくり推進部)

 

「大量人骨が埋められた時期」

・大量の人骨の中の三個体(No.9,15,23)については、二世紀に埋められたことを炭素14年代測定によって既に確認済。

・大量人骨は個体ごとにはまとまらずにかなり混じり合っており、埋められる段階ですでにかなりバラバラの状態であった。

・人骨が埋められた後、再び掘り返された形跡はないと判断される。

・人骨と共に土器の破片も埋まっており、この土器の形式は弥生時代の二世紀第三四半期(AD150~175)と推定される。従って、大量人骨もこの時期に埋められたのだろう。

・この二世紀第三四半期は青谷上寺地が最も賑やかな頃であり、花弁高坏に代表される極上の木製品が生産されるなど、貴重な交易品が列島各地や海外との間で交易・流通していた時期でもあった。当時は各地から様々な人が青谷を訪れていたのだろう。さらに、この時期は魏志倭人伝にある「倭国大いに乱れる」時期ともほぼ一致しているようである。

「大量人骨の状況、発生理由」

・受傷した人骨は全推定個体数の一割弱に過ぎず、この大量人骨の大部分は争いの犠牲者のものとは思えない。

・一斉に殺されるにしては、推定で109人と人数が多すぎる。占い、祭祀等の結果で埋められたのではないか。

・死亡時の年齢分布は、女性は20才以下、男性は成年~熟年。

・当時は「持衰(じさい)」という名の航海安全の祈祷者が船に同乗していた。航海が成功した場合には多額の報酬を受け取るが、失敗した場合には持衰と共にその家族も含めて皆殺しとなることもあったらしい。殺された人骨の中には、このような役目の人が含まれていた可能性がある。
「古代の航海は命がけ!「魏志倭人伝」に見る安全祈願の奇習「持衰(じさい)」を紹介」

米子市淀江妻木晩田遺跡の最盛期も二世紀第三四半期であり、青谷上寺地の最盛期に一致する。妻木晩田遺跡からは中国後漢製の鏡、朝鮮半島や九州北部で製作された鉄斧、山陽地方や近畿北部の土器などが出土している。青谷上寺地には、これら各地の勢力の間を行き来して仲介する人々がいたのかもしれない。

 

(2)パネルディスカッション

 上記の講演者三名に、進行役として清家章氏(岡山大 大学院教授)が加わってパネルディスカッションが始まる。なお、以下はざっとメモした内容であり、書くのが間に合わずに抜けている部分も多い。

藤尾: BC10世紀に水田稲作が伝来、BC6世紀までに伊勢湾以西の西日本一帯に広がった。

篠田: 弥生初期のDNA分析可能な人骨がまだ出てこない。韓国では様々なDNAのタイプの人骨が分布している。

藤尾: 愛知県ではBC5世紀ごろから縄文系と弥生系の土器の融合が始まった。これは渡来人と縄文人が同じ村に住むようになったことを示している。韓国の洛東江上流の土器と北九州の土器はよく似ている。また韓国全羅道の石剣が日本でも出ている。

濱田: 山陰で最も古い弥生式土器は出雲平野のもので弥生初期。その近くには縄文式土器を作っている集落があった。関門地区(山口県)の弥生文化を取り入れた人たちが出雲に来たと思う(BC8世紀頃)。

篠田: ミトコンドリアDNAのタイプが多いのは、青谷だけではなくて山陰全体の傾向なのかもしれない。地理的に韓国から多くの人が入って来たためではないか。

濱田: AD3世紀に中国と朝鮮の土器が青谷からも出ている。半島南部のヌクト式土器も青谷から出ている。少数の渡来人が青谷にきていたことは確かだろう。また妻木晩田にも渡来人は来ていた。

藤尾: BC3~4世紀に九州北部で青銅器の生産が始まるが、そこでは韓国の土器しか出てこない。

篠田: 韓国でも中国でも、DNAは時代と共にどんどん変わっているので、現在のDNAだけで判断するのは要注意。古代のDNAデータが必要だが確認例は少ない。

濱田: 青谷上寺地は約800年間続いたが、県内ではこれほど長く存続した集落は他にはない。人骨に関しては10体に受傷痕があり、被害者の左側または背後から攻撃されている。そのうち、傷が治りかけているのは一点しかない。なお、受傷痕があるからと言って、直ちに「倭国の乱」に関連付けるべきではない。

篠田: 結核に関していえば、その影響が骨にまで残るのは相当の重症。他の個体も感染している可能性はある。

清家: 関東に多い再葬墓との関係はどうか?

→ 藤尾: まだよくわかってはいない。

濱田: 弥生後期には、集落のそばに埋葬している例は多くない。妻木晩田では一般人の墓は見つかっていない。

篠田: 現在のコロナ禍に関係づけるのではないが、疫病流行が大量殺害の原因となった可能性はあるのかもしれない。我々の今までの調査では、DNAを「浅く」読んだだけであり(筆者注:重要なポイントだけを読んだという意味)「深く」読んではいない。詳しく読めば個人の病歴や先祖の系統までも知ることができるが、そのための費用は現在は一体につき数百万円はかかる。将来的にはもっと安価になるとは思うが。

/終了


(3)講演を聞いての感想

 以下は、今回の講演会を傍聴しての筆者の個人的な感想。

① 「父系と母系の縄文系の比率の差」

 ディスカッションの後で会場からの質問をいくつか受け付ける時間が設けられ、その中にこの件に関する質問があった。篠田氏が回答されたが、「その理由についてはまだ明確ではない」とのことだった。以下、気楽な素人の立場で勝手な妄想をふくらませてみたい。

 現代日本人のミトコンドリアハプロタイプの比率は、以下のサイトで知ることが出来る。この中の「日本人のハプログループ」の節の円グラフ(篠田氏によるもの)を見ると縄文由来のM7aとN9bは合計で9.6%。現代の日本人(男女全て)のうちの約一割が縄文系の母系に属していることになる。

「ミトコンドリアDNAのハプログループでたどる日本人のルーツ」
 
 現代日本人のY染色体ハプロタイプの比率については、平均的な値を示す文献がなかなか見つからない。縄文人に特徴的なDとC1とを抜き出してみると、以下のようになる。
「ハプログループD1a2a (Y染色体)」
「ハプログループC1a1 (Y染色体)」

 地域によって差はあるが、平均すれば現代日本人男性の四割弱が縄文系の父系に属しているとみてよいだろう。

 さらに、最近は縄文人の人骨の全ゲノム解析結果も続々と発表されるようになってきたが、その結果によると現代日本人の持っている全ゲノムのうちの一割~二割程度が縄文人由来の遺伝子とのこと。
「縄文人」

 以上が現代日本人のゲノム中での縄文系ゲノムの比率に関するデータである。これに対して青谷上寺地での縄文系の比率は、ミトコンドリアで1/32=3.1%、Y染色体で5/8=62.5%である。現代の比率と同様に父系では縄文系が優勢だが、男女間の差がより大きくなっている。
 ヒトの一世代を平均で30年とすれば、BC1000年に水田稲作と共に渡来人が九州に上陸して以来、青谷上寺地で約40世代、現代では約100世代が経過している。この間に我々の御先祖様がこの列島の中をくまなく歩き、行く先々で結婚して子供が生まれ、ゲノムはさらに混じり合っていったのである。

 渡来人が来てから40世代も経っていれば、青谷で既に相当程度にまで縄文系と渡来系が混じり合っていても不思議はない。ただ、その混合度の男女差がこの時代の平均的な値だったのか、青谷だけが特異だったのかはまだよくわからない。他の地域での発見を待つしかない。

 さて、いったいこの男女間の混合度の違いはいったい何に由来するのだろうか?筆者の頭に最初に思い浮かんだのが「性淘汰」説だ。この説の最初の提唱者は、進化論を唱えたあのダーウィンである。

 性淘汰の一番わかりやすい例がクジャクの雄だろう。雌が好むからこそ、あのように派手で、かつ、飛びづらく天敵には狙われやすい姿に進化(?)した。ちなみに筆者は、自分の愛車(軽自動車)を運転していて高級スポーツカーや高価な外車を見かけると、クジャクの雄のムダにハデな羽根を連想してしまうのである。「移動するだけなら、軽で十分じゃねえか?!」と。(軽ドライバーのヒガミ?)。

 いつの頃からかは知らないが、日本には古くから「東(あずま)男に京おんな」という言葉がある。縄文系は東日本に多く、その一方で、渡来系の分布の中心地は、各時代の政権が置かれ続けてきた近畿地方で間違いはないのである。また、平安時代を描写した絵巻物から江戸時代の浮世絵に至るまでに見るように、美人の条件として「引目鉤鼻」が挙げられる時代が長く続いて来た。

 新モンゴロイドとも呼ばれる渡来系だが、縄文系などの古モンゴロイドに比べれば、顔つきが子供っぽい、体長に比べて手足が短い等々、明らかに「幼形成熟(ネオテニー)」の特徴を持つ。実年齢よりも幼く見える女性が男性にとってはより魅力的に見えた結果(古代にもロリコンは多かった?)、新モンゴロイドが誕生したとの説があるくらいだ。この列島に渡来系女性が到達したのちにも同様な選択が続いたとすれば、母系の大半を渡来系が占めている現状の説明は容易だろう。

 一方、男性については、イケメンの基準は昔から現代まであまり変わっていないようにも見える。平坦ないわゆる「ショウユ顔」よりも、彫りの深い「ソース顔」の方が長年にわたって好まれて来た結果が、Y染色体に縄文系が四割残存という現状をもたらしたのではなかろうか。

 さて、女性については、明治以降は西洋の影響が大きくなり、美人の条件がそれまでから大きく変わった。現代の日本では眼が大きく顔の凹凸がはっきりとした、ハーフっぽいタレントが好まれる傾向にある。そのことは女性タレントに沖縄出身者が多いのを見れば一目瞭然だろう。

 ただ、自分の眼が小さいからと言って心配することはない。過去の歴史に見るように、顔立ちの流行などは十年単位で大きく変わるものである。特に欧米系の男性には眼の小さいアジア系女性を好む傾向がかなりあるようにも見える。

 話がさらに脱線するが、ダチョウと同じ鳥類でも、日本に住むカルガモやスズメのように♂と♀の姿がほとんど同じという種類もいる。彼らがどのようにして繁殖相手を選んでいるのか、そのやり方がクジャクとはどう違うのかという点が気になるところではある。

 現代の人類でも、ユニセックスと言うのか、男と女の姿形の境界があいまいになりつつあるのは確かだろう。たまにテレビを見ると「この人は、男、女、どっち?」と頭をひねる機会が増えてきた。ファッションも同様で、最近は街を歩いていても、後ろ姿だけでは男女の区別がつかないことが多い。1990年までのバブル期にフェラーリなどの高級外車を乗り回して自分の存在を誇示していた男性層も、収入減のせいもあるが、最近はめっきりと数を減らしたようである。

 この傾向は約十年前まで筆者が仕事でしょっちゅう滞在していた中国でも同様で、当時からすでに外見的には女性的な感じがする男性ほど若い女性に人気があるように見えた。今回の北京五輪では、フィギュアの羽生選手の行く先々に常に中国の女性ファンが殺到していたそうだが、これもこの傾向の一例なのだろう。

 その一方で中国の若い男性には、とかく自分のマッチョな姿を誇示したがる傾向があるが(夏になるとTシャツの袖を肩までまくりあげる、頭髪は短く刈り上げる等々)、こういうタイプは概して女性にはモテないようであった。なお、学歴が低い層ほどこのタイプが多いようにも見えた。

 余談だが、中国の都会や空港で長髪の東アジア系男性を見かけたら、その全てが日本人か韓国人であると言ってよい。長髪の中国人男性など、ほぼ存在していないからである。日本と違って、中国ではフェラーリ愛好家は今後も消滅はしないのかもしれないが、今の習近平時代が続く限りは、せっかくのフェラーリも車庫で眠っていることが多くなるだろう。

 この性淘汰説はヒトの美醜評価にも関係するセンシティブな内容なので、専門家がうっかり言及してしまったら即炎上しかねない。講演会の当日、篠田先生がこの種の質問をうまくかわされたのもやむを得ないことなのかもしれない。

 さて、この縄文系の比率の父系と母系のアンバランスの理由としては、性淘汰以外にもほかの理由も考えられる。

 現時点での縄文系の全ゲノム比率が1~2割と少ないのは、渡来系がもたらした水田耕作という生業が渡来系の繁殖率を狩猟採集の縄文系よりも有利にしたという点が寄与しているのだろう。以前には渡来系が累計で百万人程度は来たのではとの説もあったが、現在ではそこまでの大量の渡来はなく縄文系に比べて繁殖率が高かったからだという説が主流のようだ。

 ただ、これだけでは、父系と母系のアンバランスの説明にはならない。渡来してしばらくの間は渡来系の男女同士がペアになることが続いただろうから、父系の渡来系の比率も母系と同様に増えなければならないはずだ。

 さらに踏み込んで考えてみると、水田耕作という生業が弥生系母系と縄文系父系に対して特に有利に働いたという仮説もあり得るのかもしれない。ただし、XとY染色体を除いた残りのヒト染色体22対は、世代交代のたびにトランプのカードの如くシャッフルされて混じり合うので、これらは男女間の差には寄与しない。

 Y染色体はほぼ性的機能しか持たないとされているので、問題はX染色体によって生じる生理活性、また、それが一本の場合と二本の場合でその効果がどう違うのか、さらに渡来系と弥生系の間でX染色体の機能がどれだけ違うのかという点に絞られる。この問題については、医学・生理学の専門家の検討に期待するしかないだろう。


② 大量人骨発生の背景

 この大量人骨の問題こそが青谷上寺地遺跡における最大の謎に違いない。濱田氏が講演の中で述べられたように、百名を越える人々が一度に殺され、その遺骸が一斉に溝中に投棄されたとは考えにくい。この問題を考えるうえでの大きなカギは、「埋められる時点で既に骨がバラバラになっていたこと」と「骨の一部、特に頭蓋骨が部分的に焼かれていたこと」にあると思う。

 ちょうど、県立図書館で最近借りた「倭人への道」(吉川弘文館、中橋孝博(九州大学名誉教授)著 2015年発行)という縄文・弥生時代の人骨に関する本を数日前に読んでいたら、かなり興味深い内容が載っていた。

 中橋先生は医学部出身で古人骨鑑定の専門家であり、2007年から中国山東省の青島市の遺跡でBC4000年頃の人骨の調査を行ったとのこと。その遺跡では、数百体以上もの大量の人骨がかなりバラバラになった状態で埋められていたそうである。しかもその中には、まだ有機物や水分が含まれている状態のまま焼かれた骨も混じっていたとのこと。これは、どこか別の場所でいったん埋葬した遺体を再び掘り出して、骨の一部を焼き火葬した上で再びまとめて埋めたことを示している。

 この方式を二次葬と呼び、中国でも日本でも特に珍しい葬儀方法ではない。ただし中国では火葬については儒教の影響で現代近くまで強く禁忌されており、古代の火葬例の発見自体、大変に珍しいそうである。

 なお、この遺跡に埋められていた人骨自体は、顔の特徴は弥生渡来人によく似ているものの、頭蓋骨や歯の大きさなどは渡来人とは相当異なっていたとのこと。弥生人渡来よりも二千年も前の人骨だから違っていて当然なのかも知れないが、縄文期の温暖化のピークであった当時、この遺跡がある山東半島の南側にまで水田稲作が到達していたことは記憶しておくべきだろう。

 この二次葬について、もう少し調べてみた。再葬または複葬 とも言い、沖縄ではその際に海水で骨を洗う洗骨という風習が戦前までは広く行われていた。再葬墓弥生時代には中部から東北地方にかけて広く見られたが、近畿以西では確認されていない。また、東日本の再葬墓では青谷と同様に骨を焼いた事例が数例確認されているが、再葬墓では骨は壺に入れて埋葬されており、青谷のようにむき出しのまま骨が埋められた例はないらしい。

「弥生時代の再葬制」

 いずれにしても、この青谷の大量人骨は、一度別の場所に埋葬されていた遺骸が再び掘り出され、一部の骨を焼くなどの何らかの宗教的・呪術的処置を施されたのちに、溝に投棄されたものである可能性は高い。三個体の頭蓋骨の中にまだ脳が残っていたという事実は、最近殺害されてまだ埋葬されていなかった人たちの遺骸もその中に含まれていたことを示しているのではないか。

 死者に対する敬意があれば再葬墓のように壺に入れて丁寧に埋めたのだろうが、そうでない所を見ると、死者への敵意を持っていたか、少なくとも死者への関心が薄かった集団による行為のように思う。

 次に、この大量人骨発生の背景を考える上でのもう一つのカギとして、「人骨の構成年齢が特定の年齢に偏っている」という事実が挙げられると思う。濱田氏は講演の中で「死亡時の年齢分布は、女性は20才以下、男性は成年~熟年」という事実を強調されていた。仮に疫病で死んだ人々の人骨を集めたならば、このように偏った年齢構成にはならなかっただろう。また、集落の一般的な人々の墓を掘り起こし骨を集めて再び投棄した場合にも、その年齢構成は多様な老若男女の範囲内で幅広く分布したはずだ。

 濱田氏は、重要と思われる点をさらにもう一点指摘されている。当時、「持衰(じさい)」という名の航海安全の祈祷者が存在していたことについての指摘だ。この文を書いているうちに気になってきたので、持衰についてあらためて調べてみた。

 以前購入したものの、ざっとしか読んでいなかった「日本の古代 第一巻 倭人の登場」の中にそれに関係していそうな記述があったので、下に概要を示しておこう。なお、筆者は門外漢なので詳しくは存じ上げないが、この部分を執筆された故大林太良氏は、日本の民俗学を代表する高名な研究者だったようだ。

「東南アジアの航海民におけるタブー」:「日本の古代 第一巻 倭人の登場」 森浩一編、執筆 中公文庫 1995年 P307 

 「航海のとき、居残った特定の人物が厳しいタブーに服することは、マルタ(マラッカ)諸島(筆者注:おそらくモルッカ諸島のこと)にその例が多い。・・帆船が航海に出たとき、ふつうは一人の少女が陸上に残っていて、航海がうまくいくかどうかは彼女の責任とされる。彼女は帆船とほとんど同一視され、村人たちは彼女の様子を見て航海がうまくいっているかどうかを判断する。船が航海に出ている間は、彼女は働くことも、歌うことも、遊ぶことも禁じられている。特に家から外に出ることは厳禁されている。この少女が病気になると船に悪いことが起き、彼女が死ぬようなことがあると船は沈んでしまう。逆に船が不幸に会うと、彼女がタブーを破ったからだとされ、彼女だけが責任を負うのである。」


 青谷の人骨では、男性は成年から熟年の範囲にあり、航海者としては最適な年齢にあったと言ってよいだろう。女性は主に20才以下だから、これも集落に留まって航海者の安全に責任を持たされた少女の年齢に当たる。青谷から出た人骨は、男女ともにこの航海者のタブーに関係する年齢層に集中しているように見える。

 もう一つ、沖縄の海辺の集落での男女の役割について述べている資料を見つけたので、抜粋して下に示す。ここでは集落に留まる女性に必ず守るべきタブーがあるかどうかは不明だが、彼女には海に出た兄弟の安全に対する責任が課せられる。その点については上の例と同様なのである。

 

沖縄の「おなり神」の風習:wikipedia 「おなり神」 

 「古来、琉球では女性の霊力が強いと考えられており、神に仕えるノロやシャーマンであるユタも女性だった。・・・おなり神(妹)の霊力はえけり(兄)が集落を出て離れている時に最も強くなると信じられており、その事から、男が漁労、旅行や戦争に行く時は、妹の毛髪や手拭をお守りとして貰う習俗が長く続き、現代も一部に残っている。・・・おなり神信仰において、兄と妹の関係性は別格とされる。既婚者の男性を霊的に守るのも伴侶である妻ではなく妹と考えられており、近世までは既婚者に大事があった場合でも、その妹が呼び出されて祈念を行うということがよくあったという。」

 沖縄では、11世紀後半から始まるグスク時代に、九州から大量に和人が移住してきたことが人骨の形態分析等から明らかになっている。この記事の内容によると、上記の沖縄の風習の基本形は、グスク時代以前の貝塚時代から連綿と継承されてきたらしい。さらに、この兄弟が執行者で姉妹が祈祷者という関係は、青谷上寺地と同時期に存在した邪馬台国の政治体制にもつながる要素が認められる。

 航海民の移動範囲は、陸上だけに住む我々から見れば驚くほど広い。沖縄糸満の漁民は、サバニという長さ10mに満たない帆かけの丸木舟に乗って、沖縄から日本本土までをやすやすと往復していたそうである。インドネシアの風習が島づたいに沖縄まで伝わったとしても、それがさらに青谷にまで影響を与えていたとしても不思議はない。

 また、現在のインドネシア人の大半はオーストロネシア語族に属するマレー系言語を話すが、BC4000年頃に台湾から始まった同語族の拡散は、現在は太平洋全域、さらにはアフリカ東岸のマダガスカルにまでも広がっている。この東南アジア航海民のタブーは、同語族が台湾に居た時代にすでに成立していた可能性も考えられる。

 さて、「航海民のタブーに関係する人々が、青谷の大量人骨の主要を占めていたのでは」というこの着想は、現段階では憶測の域を出ない。これをより確かなものとするためには、以下のようなステップを踏む必要があると思う。

(a) 青谷で既に出土している人骨を、さらにより詳しく調べることで、各個人間の関係、病歴、働き方、食生活などがより明らかになって来る。ゲノム解析の手法のレベルも、今後はより精密に、かつ安価になっていくことは確実だろう。また、文献上の国内外での焼骨例と比較することで、青谷での焼骨の意味が見えてくるのかもしれない。

(b) 現在までに青谷上寺地で発掘された領域は、想定される集落全体の範囲の一部でしかない。今すぐには難しいのかもしれないが、今後さらに周辺の発掘を進めていくことで、集落の構成人員やその生業などの全体像が見えてくるだろう。特に、墓地が発見されれば、集落の一般の人々と大量人骨となった人々との違いが明確になる可能性はある。

(c) 国内外の他の海辺の遺跡でも青谷と同様な年齢構成の大量人骨が出てくれば、その集団と青谷との比較が可能になる。ただし、青谷でこのように大量の人骨が残っていたこと自体、既に奇跡的なので、他の地域での同様な発見はあまり期待できないのかもしれない。

③ 顔を復元した男性像

 既に何度か報道された、顔を復元した男性の像だが、当日は会場入り口の脇に展示されていた。時間が無く、周りに人が密集していたこともあり、筆者は離れた所から少し眺めただけだったが、しっかりとした顔立ちが印象に残った。かなりハンサムなほうと言ってもよいのかもしれない。当時も割と人気を集めていた男性ではなかろうか。下に当日配布された資料に載っていた写真と説明とを転載しておこう。

図-2 8号男性の復顔像(当日配布資料より転載)

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 上の(1)の篠田氏の講演のところで既に示したように、30代半ばで受傷痕があり、脳がよい状態で残っていたとのこと。このことから、この男性は殺害されてからあまり時間がたたないうちに埋められたものと推測される。

 何が原因で殺されたのかは空想の範囲内でしかないが、こうして復元された顔を見ていると、この人の死に対する哀れみ、同情、彼の人生に対する共感のようなものが自分の胸の中に湧いてくる。単なる無機質でしかなかった骨の塊りが、その顔を復元しただけで、こちらから話しかけてみたくなるような対象へと変貌する。我々の心の動きというのは実に不思議なものだ。
 今後、県は女性の顔の復元像も作る予定とのこと。その成果を見るのも今後の楽しみのひとつとしたい。

/P太拝