「開かれた市政をつくる市民の会(鳥取市)」編集者ブログ

当ブログの内容は編集者個人の見解であり、「市民の会」の公式見解ではありません。当ブログへのリンク、記事内容の引用等はご自由に!

究極の悪とは

 一昨日の朝、ウクライナ南部の原発がロシア軍の攻撃で火災発生とのニュースが飛び込んで来て驚愕した。昼過ぎには原子炉には異常がないとのニュースが流れて、一応ホッとはしたが。
 地図を見ると、この原発の緯度は北緯45度くらいで日本でいえば北海道の北部に相当する。現地の冬季の地上での風向きにどういう傾向があるのかはよくわからないが、上空では西からの強いジェット気流が吹いているはずだ。

 原子炉が破壊されて放射性物質が高空にまで舞い上がれば、被害はウクライナ国内だけではすまない。真西に位置するカザフスタン、モンゴル、北側のロシア国内、南側の中国などには、ジェット気流を経由した放射能が落ちて来て汚染される可能性は高い。当然日本にも被害が及ぶだろう。

 1986年に発生したチェルノブイリの事故の際には、たまたま南寄りの風が吹いていたために、原発から見て北西方向の地域が強く汚染された。その範囲は、2000km以上離れたスカンジナビア半島アイルランドにまで及び、北欧では飼っていたトナカイが大量に処分された。下の記事に見るように、同地の放射能汚染は2014年時点でも未だに続いている。北欧の先は海なので、結局、どこまで放射能が拡散したのかは不明なままだ。
「トナカイ肉の放射能濃度が急上昇、ノルウェー」

 それにしても、原子炉を攻撃するという事実に見るようなロシア軍の安全感覚の無さ、知的レベルの低さには驚くしかない。皇帝の意思で全てが決められる独裁国家では、一般の人民は考えるという行為自体を自ら放棄してしまっているのかもしれない。

 原子炉が戦争やテロの標的になり得るということは、以前からたびたび指摘されていた。当ブログでも、非核の携帯型ミサイルで原発が海から攻撃されれば、少なくとも半径数十km以内の住民が家を捨てて逃げ出さなければならないと六年前に指摘したことがある。放射性物質の放出量が多ければ、福島の事故の際にその寸前にまでいったように、日本の半分が居住不能になる恐れすらあり得る。

 あの福島での経験にも関わらず、原発を再稼働させて原発敷地内に保管する「死の灰」をさらに増やすことに賛成している政治家が未だに多いことには驚くしかない。彼らの多くは日本の防衛費をさらに何兆円も増やすべきだと主張するが、その主張と原発再稼働の方針とは完全に矛盾している。

 某国なり、テロ組織なりが漁船を偽装して島根原発に近づいてきて、原子炉本体や使用済み核燃料貯蔵施設、原子炉冷却関連設備に向けて非核の小型ミサイルを何本か発射したとしたら、山陰両県は、いや西日本全体が一体どうなってしまうのか。その答えは子供でも判るだろう。原発は、その存在自体が既にリスクのカタマリでしかないのである。

(1)「子供を殺す」ことこそが究極の悪

 さて、今回の本題に入ろう。このロシアによるウクライナ侵略が始まって以来、人間の持つ悪について考えることが多い。我々人類にとっての究極の悪とは、子供を殺すことだろう。生物学的に見れば、ある種の生物による自らの種の子殺しは、種それ自身の自殺行為に他ならないからである。自らの子殺しを頻繁に行うことが常態化した生物集団は、早晩、滅亡する可能性は高い。

 この観点に立てば、今回のウクライナ戦争で、ロシアとウクライナのどちらに正義があるのかは明白である。現在、ロシア軍は都市に無差別にミサイルを撃ち込んでは、子供を含むウクライナの市民を日々大量に殺しつつある。ウクライナ軍がロシア側にまで出かけて行って、非武装のロシア市民に向かって発砲した例は、仮にあったとしてもごくわずかだろう。正義はウクライナにあり、今のロシアは悪魔に支配された悪の帝国に他ならない。

 プーチンウクライナ人を「ロシアとは血を分けた兄弟」と呼ぶけれど、自分の血を分けた兄弟の子供を殺しているのだから自己矛盾もいいところだ。今後の自滅は当然だろう。

 日本国内では元首相や元サッカー選手などがロシア寄りの発言をしているようだが、当事者の資質や過去の両国間の約束がどうだったかなどは二次的なことに過ぎない、肝心なのは、今、どちらが子供を殺し、どちらが子供を殺していないかという事実である。

 「子殺し」の有無を正義の判断基準にすれば、過去の歴史もずいぶんと判りやすくなる。約50年前のベトナムでは、アメリカ軍と韓国軍とが子供を含む一般市民を頻繁に強姦・虐殺していた。反対に、北ベトナム軍やベトナム解放戦線がアメリカや韓国にまで出かけて行って、そこの一般市民を強姦・虐殺した例は一件も起きてはいないはずだ。ベトナム戦争では、正義はベトナムの側にあった。

 今回のウクライナではアメリカは一応は正義の側とみなされているが、正義の味方や、正真正銘の被害者であっても、いつ悪魔に変貌しないとも限らない。アメリカ以外ではイスラエルが典型的な例だろう。ナチスドイツに大量虐殺されていたユダヤ人がつくった国が、いつの間にやら、パレスチナ人の子供を大量に殺す側へと回ってしまっている。

 「子殺し」は戦争の時だけに起こるのではない。本来は当然助かるべきはずの病気の子供が、医療体制が不備なために苦しみながら死んでいく。これも一種の「子殺し」だろう。

 今回のコロナ禍が始まってからは、カミュの小説「ペスト」が再び世界中の人に広く読まれるようになったそうだ。この小説の後半部の、予審判事オトンの息子の少年がペストで激しい苦痛にさいなまれながら死んでいく場面で、カミュはこの小説の主人公の一人であるリウー医師にこう言わせている。

 「子供たちが責めさいなまれるように作られた、こんな世界を愛することなど、僕は死んでも同意できません。」

 カミュの思想の中心には「不条理に対する抵抗」がある。「不条理」とは難しそうな日本語だが、元々のフランス語をくだけた日本語に訳せば、「ばかばかしくナンセンスなこと」、「合理的な筋道がたたないこと」だそうである(「カミュ伝」 中条省平 インターナショナル新書 2021年、P67 より)。

 戦争、天災、パンデミックなどは不条理な事象の代表的な例だろう。より日常的な例を挙げれば、「同じように働いているのに、非正規の自分は正規の半分の給料しかもらえない」、「友達は遊び歩いているのに、実家から仕送りのない自分はバイトに追われて授業に出ることすらままならない」、「理由はよく判らないが、職場の誰にも無視されて口をきいてもらえない」等々、これらもみな不条理な現象なのである。カミュによれば、最も不条理な事実とは「人はいつか必ず死ななければならない」ことである。カミュの思想は、不条理の中で日々生きている我々に何らかの希望をもたらすもののように思う。

 話は変わって、現代の日本でも「子殺し」は頻発している。実数を調べてはいないが、親が自分の子供を殺す事件が、平均して全国では月に一件くらいは起きているような印象がある。殺される子供は、まだ小学校にも通っていない幼児であることが多い。親の暴力に抵抗する力もまだ持ち合わせていない子供たちが、自分の親から一方的にいじめられて殺されている。なぜ、こんな事件が起きるのか。

 この種の事件の背景については詳しくは報道されないことが多いし、記事になった場合でも、読み始めるとすぐに怒りがこみあげるだろうと予想してしまうので、自分はなかなか詳細を読む気にはなれない。推測でしかないが、以下にその背景を想像してみたい。

 周囲の人たちとの関係において、とかく自分の思い通りにはならない人生を送っている親が、そのストレスを唯一自分が所有し支配できる存在である自分の子供にぶつける。ぶつけることで「他人に支配されてばかりいる自分でも、人を支配することができる。支配し、その生殺与奪の権利を握ることができる。」ことに一種の満足感を味わうのではないだろうか。自分を頼る以外には生きるすべを知らない我が子は愛おしい存在であると同時に、自分の支配者としての力を試せる唯一の存在でもある。

 配偶者、同棲者、両親などの家族、職場の上司や同僚等々、他者から支配され自分の人格を認めてもらえないでいる親ほど、我が子を支配することで自分の力を再認識しようとするのではないか。その結果として、子供をつねる、叩く、食事を与えずに閉じ込める、冷水を浴びせる等々の虐待が段階的にエスカレートし、ついには死に至らしめる。

 親の虐待は子に遺伝するとはよく言われることだが、支配-被支配の人間関係も連鎖反応を起こすのだろう。この反応の連鎖の末端に、親の暴力に抵抗すらできない無力な幼児が位置している。

 この構図には、学校や職場でのイジメ問題と共通するものがあるのではないか。筆者の中学校時代の経験だが、中一の時のクラスの雰囲気はみな仲が良くて和気あいあいとしていたのだが、中三になるとクラスの中が荒れてその雰囲気が殺伐としてきた。

 体が大きく腕力のある生徒が、ひ弱で抵抗できそうもないタイプの生徒をことさらに侮辱したりイジメたりする、使い走りをさせる、というようなシーンが増えてきた。イジメる側は、特定の仲間をイジメることで自分の持つ力を再確認したいのである。ただし、現在ではクラスの大多数が集団で一人の生徒をイジメたり無視することが多いようだが、当時はイジメはあくまで個人間の問題であり、今のように集団化・陰湿化することはなかったと記憶している。

 このイジメの背景には中三に固有の進路決定の問題があったと思う。先生による生徒指導によって自分の意に染まない進路を選択させられた生徒ほど、或いは、家庭の事情で卒業後は進学せずに就職を強いられた生徒ほど荒れる傾向が顕著だった(1960年代後半のことなので、中卒の就職者はまだかなりいた)。自分がそれまで持っていた希望が消えて自信を失った人間ほど、他人を支配したがる傾向があるようだ。

 今の学校内の状況は詳しくは知らないが、行政担当者や先生方が、いくら「いじめはやめましょう」と叫んでみても、ほとんど効果はないだろう。学校などの大人社会、家庭、生徒間同士の中での、この支配-被支配の関係を和らげること、さらに「一度失敗しても、人生の中では何度でもやり直すことが出来る」ということを生徒自身に発見してもらうことでしか、このイジメ問題を解決することはできないように思う。

 最近話題になることが多い母親による娘への過剰支配も同じ構図だろう。夫や社会から相手にされなくなったと感じた妻は、自分の唯一の希望を娘に託し、娘の生活の全てを支配しようとする。次の事件は、その傾向が極限に達した地点で起こった悲劇の一例である。

「9浪して医学部受験 追い詰められた女子生徒はなぜ母親を殺害したのか」

 この女性は、母親を殺害する瞬間までずっと自分の自由意思を封じられて来たという点で、既に実質的に母によって殺され続けてきていたと言ってもよいだろう。母を殺したことで、はじめて自分の人生を生きられるようになったというのは悲劇と言うほかはない。この事件が我々に教えることは、あまりにも多い。

 

(2)プーチンによる「子殺し」をどうやって止めるのか

 さて、突飛な話と思われるかも知れないが、この日本の「子殺し」や「イジメ問題」と、プーチンウクライナ戦争の間には共通点があるのではないだろうか。

 よく記事に書かれているように、1991年の旧ソ連の崩壊はプーチンにとっては大変なトラウマだった。1952年生まれのプーチンは筆者よりも若干年上だが、ほぼ同世代と言ってよい。1957年の世界初の人工衛星スプートニクの成功、1961年のガガーリンによる人類初の宇宙飛行は、当時子供であったプーチンにとっては大変誇らしい成果だったろう。また1962年にはキューバ危機が発生して人類は全面核戦争の瀬戸際まで行ったが、これは同時にソ連アメリカと肩を並べる超大国になったことを示した事件でもあった。

 このように自分の国に強い誇りを持ちながら成長し、成人後にはソ連国家機構の根幹を支えるKGBの一員になったプーチンにとって、ソ連の突然の崩壊は、それまで心の中に築いてきた自身と国家とへの誇りとが一瞬にして失われた瞬間であったに違いない。心の中に空いたその穴を埋めるものとして、欧米への憎しみ、復讐心が湧き上がって来たのも、ある程度は当然なのかもしれない。

 プーチンにとっての欧米諸国は、自分が幼少期から持って来ていた誇りを傷つけ侮辱する存在である。しかも自分の国はかっては弟分だった中国には経済的にとっくに追い抜かれ、人口も減少してさびれていくばかりである。

 1991年までは身内の子分であった旧ソ連圏諸国の中には、バルト三国のようにいち早く西に向かって逃げ出した国々もいる。ウクライナは最も身近な存在の弟分であったのに、いつの間にやらバルト三国と同様に逃げ出しにかかっている。ぶん殴って鎖で家の玄関の柱に縛り付けてでも逃がさないようにしようというのが、今のロシアなのである。

 我が子を支配し、その自由を奪うことでしか自分の誇りを維持できない、かつ自分の力を再確認できない哀れな母親とロシアとは似たような立場の存在なのである。

 プーチン、子殺し途上の親、イジメる側の親分、娘に過干渉する母親にさらに共通するのが、対象とする相手の自由意思を一切認めないという点である。対象とされた相手にとっては、この状況は地獄でしかないのだが、迫害する側はその訴えを理解できない、もしくは意図的に無視する。相手を今の束縛状況に留めて置かなければ、逆に自分の自信が失われるからである。いったい、どうやったら、この状況を変えられるのか。

 日本国内の家庭問題やイジメ問題については、解決の道筋ははっきりしていると思う。問題の背景には、加害者自身が第三者からの迫害を受ける被害者となっているか、その事実が希薄でも、自分が誰かからの迫害を受けている被害者だと思い込んで(最近頻発している「通り魔的な無差別大量殺人」がこれに相当する)自分への自信を失っているという構造がある。この構造を変えていけばよい。

 グレていた少年が、得意なスポーツを見つけて熱中することで自信を取り戻し別人のようになった、というのはよくある話だ。子供を無意識にイジメてしまう女性は、自分を虐待している夫や同棲相手から逃げ出すことで改善する可能性があるが、この場合には経済的な問題が障害になりそうだ。

 いずれにしても、加害者と被害者が共に周囲から孤立したままでいれば、状況はますます悪化する。自分の攻撃的傾向をある程度自覚している加害者は、その状況についてなるべく第三者と相談しておくことも有効だろう。人に話すことで、自分が置かれている状況を客観的に把握できるようになる。

 自分が被害者側にいる場合にも、家族や友人、行政の相談窓口などの第三者に状況を伝え続けることは重要だ。加害者と被害者だけで周囲から孤立し、その関係がさらに煮詰まってしまうと、我が子の殺害、被害者の自殺、或いは加害者に対する致死的報復などという最悪の選択肢も可能性の中に入ってきかねない。

 プーチンには、言うまでもなく上に述べたような処方箋は全く通用しない。彼は「現代によみがえったロシア皇帝」であり、臣下のいうことなど、まして外国からの忠告などは一顧だにしないだろう。そう思ったのは、次に紹介する一枚の写真を見てからのことである。
「ロシアの安全保障会議」

 これは2/21にクレムリンで開催したと報道されている、プーチンが関係閣僚を集めて開いた会議の公開写真だが、プーチンと閣僚との間の距離が異常なまでに離れている。コロナ対策だとしても、必要な距離の何倍もある。

 この会議は、プーチンが絶対に侵すことのできない至高の存在であることを国民に見せつけるための儀式でしかないように見える。また。会議と称してはいるが、閣僚の意見を聞いて今後の方針を決める場ではなく、プーチンが各閣僚の忠誠心を採点する場と化してしまっている。まさに「皇帝と、それを取り巻く忠実な廷臣」が演ずる悲喜劇の一場面と言ってよいだろう。

 なお、次の記事によれば、この写真自体、2/21よりも前に撮影された可能性があるとのこと。プーチンは現在、ウラル山脈のどこかに隠れて指揮をとっているらしい。

「プーチン大統領は暗殺恐れウラル山脈に雲隠れか…身柄拘束には「懸賞金1億円」」


 プーチンが始めた戦争なのだから、プーチン個人の精神構造に関心が集まるのも当然だろう。ここ数日、プーチンの個人情報が続々と報道されている。その一部を示しておこう。
「プーチン大統領“実母”の秘密 当局が写真をすべて没収、取材しても放送できず」 
「プーチン大統領の正体 父は戦争の英雄、本人は最強の少年、宝くじ的中も」 


 二番目の記事には、「金日成が日本軍歩兵銃で米軍機を撃墜」したという話を思い起こさせるものがある。ロシア、中国、北朝鮮と、日本の周りにはなんでこんなに「皇帝好き」の国が多いのだろうか?

 どうやら彼の人生の多くの部分が、ウソで塗り固められた土台の上に建てらて来たものらしいが、こういう人物は、えてして自分でついたウソに自分自身が騙されるようになるものである。そういう意味では、現在の彼は、現実と自分の妄想とが混然一体となった、彼しか入れない世界を見ているのだろう。その点は第二次世界大戦末期のアドルフ・ヒトラーの状態によく似ている。

 子供の頃のヒトラー権威主義的かつ抑圧的な父親と激しく対立した。上級学校の成績も不良で中退を繰り返し、結局、正式に卒業したのは小学校だけであった。青年期には画家を志したが絵が下手で挫折。徴兵された第一次世界大戦では敵の化学兵器にやられて一時的に失明。青年期にこれほどまでに挫折を繰り返した人物も、そう多くはないだろう。その結果、彼は既存の体制の多くを、特に経済界に確固たる基盤を持っていたユダヤ人を激しく嫌悪するようになった。

 ヒトラーとは対照的に、プーチンはロシア国内では有数の大学であるレニングラード大学を出ているくらいだから学業成績は優秀だったのだろう。しかし、人生の半ばで強い挫折を経験した点はヒトラーと同様である。自分に敵対する人間を次々に殺害し、取り巻きにはイエスマンばかりを集め、外国からの批判は完全に無視する等々、今のプーチンは大戦中のヒトラーにそっくりである。

 「プーチン核兵器をたずさえて現代に再登場したヒトラーである」と思っておいたほうが無難だろう。

 ヒトラーは、最後には地下壕内でピストルを使ってエバ・ブラウンと共に自殺した。プーチンは既に戦争犯罪人として処罰されるべき資格を十分に持っているが、彼を追い詰め過ぎると、自殺する前に核のボタンを押して世界を道連れにする恐れが多分にある。外国勢が支援しての戦闘はあくまでウクライナの領土内にとどめ、プーチンの防衛本能を刺激するロシア本国への攻撃は控えるべきだろう。ロシア全体を兵糧攻めにして内部崩壊を待つしかない。

「プーチン氏「精神状態」分析 米情報機関の最優先課題に」

 幸い、中国や北朝鮮とは異なり、ロシアでは民主的制度が部分的にではあるがまだ機能している。筆者にはロシア人の知人は全くいないが、今までロシア人と交流してきた方には、引き続き正確な情報を数多く流していただきたい。ロシア国内で流れている情報は、既に官製のフェイク情報だけになっているらしい。

 プーチンの取り巻き連中も、いつまでも親分に着き従っていては自分の身も危ないことを悟る時期が近いうちにくるだろう。それまでは、ウクライナの人々やロシアの若者がさらに無駄に死んでいくのを見続けることになる。それがつらい。

/P太拝